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「ねぇ、穂花。あのね…」
そう振り返って笑いかけてきた彼女の言葉はそれ以上続かない。ねぇ、なんて言ったの?あの日、どんな話をしていたっけ。最後まで言ってくれないとわからないよ。どんどん暗闇に消えていく彼女にそう叫んでも勿論答えは返ってこない。
ああ、これは夢だ。
わかってる。実際はこんな暗闇にはいないってことくらい。でも、冷えていく心が、私を覆う暗闇が、これは事実だと言っている気がして自分さえも見えなくなっていく。
自分がいた場所にも戻れない。今いる場所でも変なことに巻き込まれてばかりで坂田さんにいつも迷惑かけてしまっている。あの人は謝るなと言ってくれたけど、私をいつも助けてくれるけど、私がこの世界に来なければ起こらなかったことが沢山あってその度に居た堪れなくなって、どんどん自信をなくしていく。
暗闇が一層濃くなって、完全に自分の姿も見えなくなった。寒さなんか感じる筈がないのに心だけじゃなく身体まで冷えていっている気がして自身を抱き締めて蹲み込んだ。
寒い。怖い。こんな所で、独りは嫌だよ。最近この夢は見なくなっていたのになんでまた暗闇に独りぼっちなの。坂田さんがいてくれたら…なんて、そんなことを考えてしまう自分が嫌で、でも頼れるのは坂田さんだけで、そんなダメな自分はやっぱり独りでいる方がいいんじゃないかと思う。いつも様々な矛盾に踊らされてしまう私は、どうして生きているんだろう。
ーーもう、いっそのこと
一つの答えに辿り着きそうになった時、堪えていた涙が頬を伝った。このまま暗闇の中にいたら、誰にも迷惑かけないかな。坂田さんを面倒に巻き込んだりしないのかな。誰でもいいから、教えてほしい。私はどうしたらいいの。どうすることが正解なの。
「こういう時は笑ってありがとうだけ言っときゃいいんだよ」
「…っ、」
不意に頭上から声が聞こえてきて顔を上げると坂田さんが呆れたように笑いながら立っていた。どうして。どうして坂田さんがここにいるの。暗闇で自分の姿さえ見えないのにどうしてあなたは見えるの?どうしてそんなに輝いてみえるの?そう聞こうと息を吸ったら言葉ではなく涙が溢れて零れ落ちた。震えるまつ毛に合わせて次々と頬を伝う涙を見たことのないような優しい笑顔を浮かべてそっと指で拭ってくれる坂田さんを見つめて、やっぱりこれは夢だと改めて感じた。だって坂田さんがこんな風に優しく笑ってくれるわけないもの。いつも気怠そうで面倒臭そうで、優しいとは思うけど意地悪な人だもの。だからこれは私が作り出した幻影でしかないとわかっていても、安心している自分がいる。
何も言わずに差し出してくれた手を掴むと暗闇は晴れていき見たことのある景色になって、手を引かれてネオンの煌めく街中を歩いていた。それが今日の出来事だと気がつくのに時間はあまりかからなかった。夢だから感覚なんてないはずなのに握られた手が暖かい。その温もりが腕を伝って冷えた心を溶かしてくれているみたい。
このまま、時が止まればいいのに。
そう思っていても、あっという間に家に着いてしまうんだろう。あんなことがあって、一人で家に帰るなんて本当はしたくない。寂しくなったら一緒に寝てやると言ってくれた坂田さんに甘えてしまいたい。でもそんな勇気もなくて、ただ黙って着いていくことしかできない。
「お前さァ、ハンバーグ作れる?」
何も言葉を発さず歩いていた坂田さんが唐突にそんなことを口にした。なんでハンバーグ?言葉の意図が理解できずに素っ頓狂な声を出してしまった。
「ハン、バーグ…?」
「さっきテレビでハンバーグ特集やってて食いたくなっちまってよー。明日仕事は?」
「休み…」
「じゃあ明日の晩飯はハンバーグな」
「えっあの、それってどういう…」
そんな話をしている間に私の家は通り過ぎてしまっていて、そこでやっと理解した。ああ、泊まっていけと言ってくれているんだ。わかりにくいけれど、確かにそこにある優しさはいつも私の心にほんの少しだけ光をくれる。その光に甘えてしまいそうになって、優しさの海に溺れてしまいそうになって、必死に水面に出ようともがくばかり。坂田さんに頼ってばかりじゃいけないのに、気が付けばその鈍い光に手を伸ばしてしまう。
坂田さん、どうして?
どうして私に優しくしてくれるんですか?
実際には聞けなかったことを口にしたら坂田さんは歩みを止め、振り返って優しく笑った。その優しさは暖かい光のようだけれど、水のように冷たく感じた。
ゆっくりと頭が覚醒していくのを感じて薄っすらと目を開けた。まだはっきりとしない意識の中でいちご牛乳と書かれた掛け軸を見つけて自分が坂田さんの家にいることを思い出した。閉じられた襖の向こうから話し声が聞こえてきて、音を立てないように這って襖の近くまで寄るとその声が坂田さんとお登勢さんのものだとわかって思わず息を潜めた。
「それで、ただのナンパ野郎だったのかい?」
「いや、アイツらはそうだろうが何か別にいそうな気がする」
「あの子キャバ嬢なんだろ?大丈夫なの?」
「まぁ今んとこ用心してりゃ問題ねーだろ。でもなんかあったらアイツのこと頼むわばーさん」
「それは別に構わないけど、アンタがそこまで自分から気にするなんて珍しいこともあるもんだねェ。もしかしてアンタ…惚れちまったのかい?」
「ちっげェわクソババァ!…色々あんだよ」
「まぁ、ちゃんと守ってあげな」
お登勢さんのその言葉を最後に会話はなくなり、一つの足音がどんどん遠のいて行った。今の話、どういうことだろう。また昨日みたいなことが起こるかもしれないってことなのかな。その可能性に身震いして、畳に置く手を白くなるくらいぎゅっと握りしめた。先程の二人の会話が頭の中で木霊する。考えを巡らせすぎて夢の中のように目の前が真っ暗になりそうになった時、突然襖が開かれた。
「…お前何やってんの」
「ぁ…あの…」
襖を開けたのは、勿論坂田さんだった。私を見下ろす坂田さんは眠そうな顔をしているから、きっともう一眠りしようと襖を開けたのだろう。さっきの話を聞いていたと、どういう意味だと聞きたい。けれど、きっとそんなことを言わなくても私が聞き耳を立てていたのはこの状況で一目瞭然だし、その深紅色の瞳が何も話す気はないと言っているような気がして口を開くことができない。
「穂花ちゃんもうちょっと…こう、両腕寄せてさ、」
「え…?こ、こう…ですか、?」
時計の秒針の音と鼓動が重なる頃、坂田さんは自分の両腕を寄せて、私に真似るよう言ってきた。なに?何を意味するかわからないまま坂田さんがしているのと同じようにやってみせると満足気な顔をして部屋に入ってきた。
「そうそう。うん、これからはその寄せ方で頼むわ」
そう言いながら布団に入ってこちらを見る坂田さんの視線の先がなんなのかに気付いてやっと意味を理解した。さっきまで寝ていたからか、着物の襟が乱れて下着が丸見えだった。襟を整えて責めるように声を出すと、また意地の悪そうに笑った。
「そんな誘うような格好されたら銀さん困っちゃうわ。穂花ちゃんのえっちィ」
「そ、そういうつもりじゃ…っ」
「冗談だよ、ホント揶揄い甲斐のあるやつだなおめーは」
「だっ、だって…」
恥ずかしすぎて下を向く私にホラ、もう一眠りするぞと敷布団をぽんぽんと数度叩いて此方に来るように促す坂田さんは、いつものように面倒臭そうで意地悪そうだけど、どこか怒っているようにも見えてそれ以上何も言えずに布団へ入った。前のように私を抱き締めるその腕は、なんだか力強くて、あんな冗談を言ってきた人とは思えない。包み込むような温もりに再び夢に誘われそうになっている時、穂花、と低くて響く声が鼓膜に届いて顔を上げた。
「なんかあったら、すぐ言えよ」
「…はい、ぁ、あの、すみませ「あぁ?」…ありがとうございます」
「ん。あと、起きたら携帯買いに行くからな」
「…うん」
「おやすみ」
夢に落ちる直前に聞いたその声は、
酷く、優しい声だった。