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買ったばかりの携帯には、坂田さんと書かれたフォルダがひとつ。なんだか、すごく近くにいてくれるような気がして安心する。まだかけたことのないその番号を見つめながら、ゆっくりと夢の中に落ちて行くのはとても心地良かった。

そっか。わかった。

身分証を貰った時も、携帯を買って電話番号を登録するように言われた時もどちらも同じくらい嬉しかった。それはこの世界に馴染めた気がしたから、認められた気がしたからだと思っていたけれどそうじゃない。

坂田さんに存在を認めてもらえた気がしたから嬉しかったんだ。坂田さんにここにいていいと言ってもらえた気がして、

ほっとしたんだ。






「穂花さんご指名です」
「えっ、わ、私ですか?」

いつものように新規ですまいるに来た方の接客してお見送りをしているとボーイさんが私にそっと近づきそう言った。跳ね上がる心臓を落ち着かせながら言われた席に向かうと微笑みながら手を振っている和田さんがいた。

「和田さん、ご指名頂いてありがとうございます」
「楽しかったからさ。それに、まだ指名貰ったことないって言ってたから」
「和田さんが初めてなんです!本当にありがとうございます。何お飲みになりますか?」
「とりあえずビールを貰おうかな。まだ指名貰ってなかったのか。てっきり…」

ボーイさんに瓶ビールをお願いしておしぼりを差し出すと和田さんは何かを言いかけてやめてしまった。てっきり、なんだろう?おしぼりを受け取ってからも黙り込んだままの和田さんに続きを促すように和田さんの言葉を繰り返した。

「てっきり…?」
「あ、いや。あれから何日か経ったからてっきり、もう誰かが指名してるんじゃないかと思ってたよ」
「あぁなるほど!まだだったんですよ。だからすごく嬉しいです」
「それはよかった。そういえば、携帯は買ったのかい?」

前回来た時はまだ携帯を持っていなかったため連絡先を教えて欲しいと言ってくれた和田さんの申し出を断っていた。出勤してから咲さんや店長、他の先輩たちの連絡先を教えて貰って随分とフォルダが増えた。お客さんの連絡先は和田さんが初めてだ。やっとキャバ嬢として進んでいける気がして思わず顔が綻ぶ。

「はは、随分嬉しそうだね」
「はい!やっと携帯買えたので嬉しくて…」
「また連絡してもいい?」
「もちろんです!お待ちしてますね」

それからしばらく話をして、和田さんは帰っていった。本当にいい人だなぁ。今日だって江戸のことをあまり知らないと言ったらいろんな話をしてくれたし、本当に優しい人。初めての指名が和田さんで良かったなぁとそんなことを考えながら夜のかぶき町に消えていく和田さんを見えなくなるまで見送ってメイクルームに戻った。

「あ!穂花!やったじゃん、指名貰えたんだって?」
「咲さん!そうなんです。やっと指名貰えました」
「しかも身なり良さげだったし、かなりお金持ってそうじゃない?使わせてやれー」
「ふふ、頑張ります」

私と入れ違いでメイクルームを出て行く咲さんとそんな話をして、先程よりも指名を貰えた実感が湧いてくる。やっと一歩進めた。坂田さんに報告したいなぁ。

電話してみても、いいかな。

昨日登録したばかりのフォルダを開く。坂田さんは携帯は持たない主義らしく、教えてもらったのは万事屋の番号だった。出ないかもしれないけれど、働き始めた頃から知っている坂田さんにどうしても指名を貰えたことを伝えたくて通話ボタンを押して耳に当てた。何回かコール音を数えたあと、やる気のなさそうな「はーい万事屋銀ちゃんでーす」という声が耳に届いた。

「あっ、あ、あの…穂花です」
「なんだ穂花かよ。依頼かと思ったわ」
「ご、ごめんなさい…」
「別にいーよ。…んで、なんか用か?」

あんな夢を見たから、あの温もりに触れたから、気をつけていたはずなのに私は勘違いをしてしまっていたのかもしれない。坂田さんならきっと一緒に喜んでくれる。そう心の何処かで期待していた。

「あの、あの私、今日初めて指名貰ったんです。連絡先も、交換して…」

自分でも声が弾んでいるとわかった。坂田さんも明るく良かったなと言ってくれると思っていたのに、聞こえてきたのは電話に出た時よりもやる気のなさそうな、どうでも良さそうな声色だった。

「へぇ…あ、そう。良かったじゃん。まぁこれからも頑張れよ」
「あ…は、はい」
「じゃあ俺これから出掛けるから切るわ。…じゃあな」
「…はい。出掛ける前に、ごめんなさい」

私がそう言葉を落とすと電話はすぐに切られてしまい無機質な音が私の耳に語りかけてきた。近づきすぎるな、思い上がるな、そう言われているような気がしてなんだか笑えてしまった。なんて馬鹿な勘違いをしてしまったんだろう。坂田さんと近くなったなんて思い上がりもいいとこだ。恥ずかしい。恥ずかしくて、消えたくなるくらい悲しい。

誰もいない、静かな部屋には私の呼吸だけが寂しそうに響く。坂田さんの言葉と通話の切れた音が繰り返し木霊する。鏡の中の私が嘲笑っているように思えて目を逸らした。

私はいつまでこうやって自分からも周りからも逃げ続けるんだろう。そんなことを考えていると、ボーイさんがやってきて今日はお客さんの入りが良くないから手が空いてる人はキャッチに行くように店長が言ってると教えてくれた。なんだかここにはいたくなくて、急いで準備をして外に向かった。



まだ週の頭だからか確かに今日は出歩いている人自体いつもよりは少ない。キャッチはあまり得意ではないけれど、大事な仕事だとわかっているから何人かに声をかけてみた。でもどれも断られてしまう。一緒に出てきた他のすまいるの人たちもなかなか捕まらないみたいだ。今日はダメかもしれないなあ、なんてそんなことを考えながら次に声をかける人を探していると私の後ろを誰かが通って、その時に嗅いだことのある石鹸の香りがした。

「…坂田さん?」

後ろを振り返るともう人混みに紛れてしまっていたけれど、綺麗な銀色の髪が居場所をおしえてくれて、思わず目で追った。隣には着物を着た女性が楽しそうに坂田さんに話しかけながら歩いている。誰だろう、あの人。見たことのない人だ。でも、あの石鹸の香りは覚えがある。坂田さんの家にある石鹸とは違う、甘い女の子らしい香り。

坂田さんの顔は、あまりよく見えない。でもその纏う空気はとても寂しそうに思えて仕方がない。なんで?なんでそんなに寂しそうにしているんですか?こんな時間に一緒に歩いているんだから、同じ石鹸の匂いをさせていたんだから、彼女なんじゃないんですか?恋人といたら楽しいはずでしょう?なのになんで、

なんで、その石鹸の香りを身に纏って私を助けて一緒に寝たりしたの。いつでも寝に来いなんて言ったの。坂田さんが何を考えているのかわからない。私は揶揄われていたのかな。どうしてあんなに助けてくれたのか、優しくしてくれたのか、もうよくわからない。けれど、それを坂田さんに聞くことはできそうにない。私はただ、呆然と立ち尽くすことしかなかった。




そんな私に気付くことなく、坂田さんと女性はそのままホテル街の方へ消えていった。