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「穂花ちゃんこっちに酒追加ァー!」
「あ、はい!!」
「穂花ちゃん穂花ちゃんこっちで一緒に呑もうぜェ」
「あ、あとで行きますねっ」


あれ。私なんで働いてるんだろう。

お登勢さんの笑顔を見ていると断れずにそのまま引きずられて店内に入り急いで言われるがまま営業準備をして、今は営業中だ。今日はいつも来ているスタッフさんが風邪で休んでしまっているらしく丁度良い所に通りかかってくれたよとお登勢さんは豪快に笑っていた。

坂田さんに会いたくないのにな…。でも、ここならあの舐めるような視線を感じることはないし、すまいるとは違う忙しさで気が紛れるから有難くもある。お客さんが帰ったばかりのテーブル席の片付けをしていると引き戸がスライドする音が聞こえた。

「おや、銀さん!アンタも飲みに来たのか?今日はえらく別嬪さんがいるよー」
「別嬪?なに、ババァ自分じゃ客集まらねーからって誘拐事件でも起こして来たの?」

その声は確かに坂田さんで、お登勢さんに憎まれ口叩きながら椅子に座ったのが振り向かなくてもわかる。話したかったのに、会いに行こうとしていたのに、"坂田さんがすぐそこにいる"たったそれだけで鼓動がどんどん速まっていく。

「そんなふざけたことばっかり言ってると叩き出すよ金なし!アンタの知ってる子だよ」
「俺の知ってるやつ?」
「穂花!ちょっとこっちおいで!」

ああ、お登勢さん呼ばないで。坂田さんがカウンターの方に視線を向けている間にお店の奥に逃げようとしていたのにお登勢さんが私を呼んだことで坂田さんは此方を振り返ってしまった。少し眉間に皺が寄ったのがわかって、やっぱり今までずっと避けられていたのだと確信した。

行きたくないけれど、呼ばれた手前行かないわけにもいかず、のそのそとカウンターの中に入った。避けられているとわかった以上、坂田さんが作っているボーダーラインに踏み込むなんてこと、私には出来そうにない。


すまいるで学んだ貼り付けたような笑みを浮かべて「坂田さんこんばんは」と言いながらお酒を注ぐ。そんな私から坂田さんは目を一度も逸らさない。震えそうになる手に力を込めてカウンターの中から手を伸ばしてお酒の入ったグラスを置いた。その瞬間目が合って、何か話さないとと口を開こうとしたら目を逸らされてしまった。楽しげに隣のお客さんと話す坂田さんは、やっぱり私とは話したくないみたい。さすがにそんなにあからさまに避けられると私だって傷つく。


「穂花?どうかしたのかい?」
「…いえ、なんでもないですよ。瓶ビール減ってきたので補充してきますね」
「あ、穂花!」

なんで避けられているんだろう。私はそんなに酷いことをしてしまったのかな。ケースに入った瓶ビールを冷蔵庫に並べていきながら頭では坂田さんのことばかり考えていた。あの冷たい瞳が目の奥に焼き付いて離れない。何かしてしまったのなら、教えてくれればいいのに。そうしたら改善することだって出来る。

ああ、私も同じだった。坂田さんや咲さん、誰にも胸の内を明かさず、偽りの自分を作って接している。坂田さんに文句なんて言える立場じゃない。そう思ったらなんだか笑えてきて、でも涙も溢れてきて側から見たら今の私は相当変人だと思う。このまま逃げてしまおうか。そんなことを考えていると後ろから間延びした声が聞こえてきた。

「お前どんだけ瓶ビール詰め込む気だよ。この店そんなに人来ねーよ」
「…っさか、たさん」
「……え。なに、ちょっと待って泣いてんの?なんで?」
「な、なんでもないっです、っ」
「いやいや、なんでもなくねェだろ。号泣じゃねーか」

あれ、なんで普通に話しかけてくれているんだろう。さっきまであんなに冷たかったのにどうして?坂田さんがどういうつもりなのか全然わからなくて、でも話しかけてくれたことが嬉しくて余計に涙が溢れてくる。

「さかたさ、私のこと、っ避けて…っ」
「えええええ。もしかして俺?俺が悪ィの?ごめんって穂花ちゃん。別に避けてたわけじゃねぇから、な?」
「……本当、ですか?」
「ホントホント。だから早く泣き止め。今すぐ泣き止め。ババァが来たらややこしいことになっから」

そう言って着流しの袖で瞼をゴシゴシと拭われた。されるがまま、拭われ続けていると涙も引いてきて頭がどんどん冷えていく。今すごく恥ずかしい状況だと脳が認識して今度は違う意味でここから逃げ出したくなった。それと同時に申し訳なさでいっぱいになって、ビール瓶の入ったケースを端に寄せてくれている坂田さんの服を掴んだ。

「あ、あああの、ご、ごめんなさい…」
「あ?んだよ今度は顔真っ赤にして。忙しい奴だなおめーは」
「わたし、あの、勘違いして、あの、泣いたりしてしまって…」
「いーよ、別に。気にしてねェから」

坂田さんはそう言って振り返り、頭にポンと手を乗せて帰り支度をするように告げた。まだ閉店じゃないはずなのに大丈夫なのかな。そんな心配が坂田さんに伝わったのか「ババァがそろそろ帰れっつったんだよ」と教えてくれた。

坂田さんの後を追って店内に戻ると、先程よりお客さんがかなり減っていた。ああ、だからもう帰ってもいいって言ったのか。戻ってきた私に気が付いたお登勢さんは、坂田さんを呼び寄せて私に聞こえないように小声で何かを話している。聞かない方がいいんだろうな。お客さんが帰ったばかりのテーブルでも片付けておこう。飲み散らかされたテーブルのグラスをおぼんに乗せていき、布巾で汚れを拭き取っていると「穂花ちゃん穂花ちゃん」と後ろから声をかけられた。先程カウンターでお登勢さんと坂田さんと話していた人だ。

「小林さん、どうかしましたか?」
「穂花ちゃんは普段どこで働いているんだい?」
「私ですか?すまいるっていうキャバクラなんですが…ご存知ですか?」
「ああ〜知ってるよ。あそこで働いてんのかィ。そりゃ、別嬪さんなわけだねェ。穂花ちゃんならナンバーワンなんじゃないのかい」
「いえいえ、全然ですよ。まだ働き始めて間もないですし…」
「すぐナンバーワンになれるよアンタなら。まあそうなったら銀さん心配だろうがなァ」
「え…?」
「穂花何やってんだ行くぞー」
「あ、えっ、はい!」

どういう意味か聞き返そうとした時、お登勢さんと話していた坂田さんに呼ばれて話は中断されてしまった。どうしようかと視線を行ったり来たりさせていると小林さんはニコニコと笑いながら「行っといで」と私に告げてそのままトイレに行ってしまった。どういう意味なのか聞きたかったのにな…。小林さんが消えた先を呆然と見つめていると後ろから軽く頭を叩かれた。

「オイコラ。何ぼーっとしてんだ。さっさと支度しろ」
「あ…ごめんなさい。……え?」
「あ?」
「あの、送ってくれるん、ですか?」
「……ババァがそれで今日の飲み代チャラにするって言ったからな」

あ、まただ。またその顔。

この前家まで送ってくれた時と同じ顔して、坂田さんは優しい嘘を吐く。その優しさは私の乾いた心に水を与え、満たしていく。そして気付けば溺れるほどに水は私の体を冷やしていくんだ。だからこの優しさに甘えてはいけないと何度も何度も自分に言い聞かせているのに、心地良いこの場所から私はいつも動けない。ゆっくりと、でも確実に沈んでいくことに身を任せることしかできない。優しくされるのが嬉しいのに嫌だなんて、私はなんて我儘なんだろう。


お登勢さんにお礼を言われ、またいつでもおいでと見送られながら坂田さんとお店を後にした。坂田さんは今日も私の少し前を歩く。その背中は、やっぱりどこか寂しそう。他の人は気付かないような小さな違和感になんだかいつもほっとする。一人じゃないような気分になる。

そのまま、背中を見つめながらネオンの街を通り抜けていく。やっぱりこの街に長くいるからか、坂田さんはいろんな人に話しかけられる。ほとんどが早くツケを払いにこいっていう催促だったけれど。七人目のツケの催促を坂田さんが躱している時、昼間に感じた視線が全身に突き刺さった。

「……っ、」
「…どうかしたか?」
「ぁ……い、いえ、なんでもないです」
「…悪ィなじーさん、また今度払いに行くから今日は勘弁してくれや」

坂田さんはそう言うと私の腕を掴んで再び歩き出した。もしかして、気付かれたかな。出来ることなら誰にも知られずに自分で解決したい。咲さんや店長さんたちに心配も迷惑もかけたくない。坂田さんに何を聞かれてもなんとか誤魔化そう、と肩に変な力が入る。

でも坂田さんは何も言わずにただ私の腕を強く握りしめてひたすらに歩き続けた。何を考えているんだろう。どんな顔をしているんだろう。坂田さん、私、助けて欲しいのか助けて欲しくないのか、どっちなのかわからないです。自分がどうしたいのか、全然わからない。坂田さんと関わりたいのか、関わりたくないのかも。何もわからない。

でも、坂田さんが私に話しかけてくれた時に流れ出た涙は嬉しさからだった。安堵から出た涙だった。

私は、どうして欲しいのだろう。

「おら、さっさと入れ」
「…あ、あの今日は色々とありがとうございました」
「気にすんなつったろ。戸締り忘れんじゃねーぞ。カーテンも閉めきって寝なさい」
「…わ、わかりました。おやすみなさい」
「おやすみ」

私が今、ただ一言助けて下さいってそう言えば坂田さんはきっと助けてくれる。でもそれはこの人の優しさからくるものなのか、別の何かなのかわからない。だって私はいつも間違えてばかりだから。きっと坂田さんは私を避けていただろうしその原因は私だ。お登勢さんに何か言われて、話しかけてくれただけなんだろう。落ち込む私を見てとった行動なんかじゃない。だから余計に、坂田さんの行動の理由が全くわからない。



立ち去る前に私の頭に置いた手に力が込められていた理由が何なのか、私じゃ到底わかりそうにない。