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今日も、何処からか視線を感じる。

その視線の正体が誰なのか、どうして私を執拗に追うのか全く見当がつかない。お願いだからこれ以上付き纏わないでほしい。これ以上この街のこと、嫌いになりたくない。




「橋さん、こんばんは!」
「おぉ、穂花ちゃん!来るの遅くなって悪かったねェ」
「いえいえ。ご指名ありがとうございます」

先日来てくれた橋さんが、今度は私を指名してお店に来てくれた。他にも新規で来て後日指名してくれる人が増えてきて少しずつではあるけれどキャバ嬢として仕事が出来るようになってきている。

橋さんは電気屋さんで働いているらしく、最近はこんな商品が出たんだよと教えてくれたり、まだ幼い娘さんの話をしてくれたりするから楽しい。今日はもうすぐ誕生日だという娘さんに何をプレゼントすればいいのか相談されて、橋さんが帰るまでの殆どの時間をその話に費やした。

「穂花ちゃんありがとう。おかげでプレゼントあげられそうだよ」
「それは良かったです。喜んで貰えるといいですね」

ニコニコと笑いながら帰っていく橋さんは本当にいい人で、心にほんの少し安らぎを与えてくれる。見えなくなるまで何度も此方を振り返り手を振ってくれる橋さんに笑って返していると後ろから聞いたことのある声で名前を呼ばれた。

「あ…和田さん。こんばんは」
「丁度いいタイミングだったみたいだね」
「ふふ、そうですね。いらっしゃいませ」

仕事を終えたばかりだという和田さんの持つ鞄を受け取り、一緒に店内に入った。賑わう店内を抜けて奥の空いているテーブルに座りボーイさんから受け取ったおしぼりを広げて和田さんに手渡した。様になってきたねと笑いかけてくれる和田さんに笑顔で応えて和田さんがいつも一杯目に飲むお酒を準備していく。"様になってきた"そう言って貰えるのは素直に嬉しい。


話も弾んで気がつくともうそろそろ和田さんが帰る時間になっていた。私が作ったばかりのお酒を一気に飲み干すとこの後良かったらご飯に行かないかと誘われた。所謂アフターというやつだ。勿論アフターに行くのは初めてでどう返答したらいいのか困っているとボーイさんを呼んでくれてアフターに行ってもいいかと聞いてくれた。少々お待ち下さいと和田さんに告げて裏に消えて行くボーイさんを眺めながら咲さんに教えてもらったアフターの心得的なものを頭の中で思い出す。確か、このまま直帰していいんだったっけ…。

そもそも、男の人と食事に行くこと自体初めてでどう振る舞うのが正解なのかもわからない。アフターの許可が出て、出口に向かう途中咲さんのテーブルを横切った時、"頑張れー"と口パクで言って手を振ってくれた咲さんみたいに素敵な女性に私もなりたい。


和田さんが連れて行ってくれたのは如何にも高級ですと言うようなお寿司屋さんだった。
大将さんのオススメを何貫か食べながら、また和田さんの話をいろいろ聞いた。和田さんのおかげでかなりこの世界のことを知ることが出来たように思う。すまいるの人たちにこの世界の話をしてもらうように誘導するのはかなり難しいし、坂田さんには何か勘付かれそうだし、私にとって和田さんだけがこの世界の江戸を知る術だった。

やっぱりこの世界の江戸は、私が学校で教えてもらった時代とは大分違うみたいだ。まあスナックやキャバクラが私が知っているものと同じな時点で違うことはわかりきっていたけれど。でも、こうやって和田さんからいろんなことを教えてもらわなければ、私はこの世界のことを受け入れられなかったかもしれない。

私が住んでいた世界とは違う。でも確かに同じ人間もいて、私と同じように生きていて。そんなこともすべて否定してしまったかもしれない。私をいつも危険から助けてくれるのは坂田さんだけど、和田さんも確かに私を助けて、救ってくれた。こうやって週に何度も通ってくれて、指名だって、今日に至ってはアフターだってしてくれる。ただ偶然知り合っただけなのにどうしてこんなにいろいろしてくれるんだろう。

どうして、私なんだろう。

「穂花ちゃん?」
「和田さんは…どうして私を指名して下さるんですか?」
「それは…」

和田さんは目を数回瞬かせて私を見て、お猪口を手に取りゆったりとした動作でお酒を口に含み喉を鳴らして飲み込んだ。こんな時まで、坂田さんとは違うなぁとかそんなことを考えてしまう自分に笑えてくる。

「それは?」
「穂花ちゃんが好きだからだよ。それ以外に理由なんてあるかい?」
「えっ、」
「穂花ちゃんが好きだから一緒に飲みたいと思うしいろんなこと知りたいと思うし話したいと思うんだよ」
「ぁ…ありがとう、ございます…」
「ハハッ自分で聞いたのに照れるの?」

かわいいなぁと笑って再びお酒を口にする和田さんは大人な人だと思った。そして、とても真っ直ぐな人だ。坂田さんと同じくらいの年代に思う和田さんは、まるで小学生のように、でもとても紳士的に真っ直ぐ私に言葉をくれる。その真っ直ぐさは、咲さんとも少し違っていて、木綿に包まれているようにとでもいうのだろうか。そんな感覚を与えてくれる人。

いつか、和田さんに恩返ししたいなぁ。



「本当に送らなくて平気?」
「はい、大丈夫です。そこまでしてもらったら怒られてしまうので」
「物騒だから気をつけて帰るんだよ」
「はい。今日は本当にありがとうございました。また、お店にいらして下さいね」
「…うん、また行くよ」

咲さんにお客さんに家は知られないようにしろと働き始めた時に言われたのを思い出して家まで送ると言ってくれた和田さんの申し出は丁重に断った。私の家とは反対方向へ歩いて行く和田さんが見えなくなるまで見届けて自分も早く帰ろうと振り返ると"何か"に思い切りぶつかってしまった。勢いよく振り返ってしまったからかそのまま背中から倒れそうになったのを"何か"が腕を引っ張って支えてくれた。

「おっまえなァ、んな勢いよく振り向くんじゃねーよびっくりすんだろ」
「さ、かたさん…」
「酔いが一気に覚めたわ。……とりあえず早く自分で立ってくんない?」
「あっ、あ、ありがとうございました…!」
「さっきのやつ、誰?」

突然現れた坂田さんに、腕を支えられたまま動かず呆然としてしまった。呆れ顔の坂田さんに話しかけられて急いで崩れかけた体勢を整えて落としてしまった鞄を屈んで拾っていると、頭上からそんな言葉が聞こえてきた。

「え?さっきのやつ…ですか?」
「店から出てきただろ。誰?客?」
「あぁ。すまいるのお客様です。初めてアフターに連れて行ってくれて」
「…ふーん。よかったな」
「はいっ」

穏やかな声に、坂田さんから褒められた気がして思わず顔が緩んだのが自分でもわかる。でも、見上げたその表情はとても穏やかには思えなくて、視線も私ではなくて遠くの方に向いていた。

「あの…坂田さん、?」
「ん?……あぁ、んじゃ行くかァ」
「えっ?ど、どこに…?」
「お前今から家帰るんだろーが」

そう言うと、この前のように私の腕を引っ張って私の家の方へと足を進める。やっぱりその手には力が込められていて痛いくらいだった。歩きだしてからずっと、坂田さんは取り止めのない話をしてきた。普段、私と二人きりの時はあまり話をしてくれないから不思議で仕方がない。調子の良い事ばかり言っているのに、私の腕を引っ張りながら少し前を歩くその背中は苛立っているようにも思えて怖い。でも、やっぱりネオンの光を反射して輝くその髪は綺麗で、儚くて、素敵だった。

坂田さんの話を話半分に聞きながらその髪に見惚れているとあっという間に家に着いてしまった。ああ、着いてしまったなんて、まるで坂田さんとまだ一緒にいたいみたいじゃない。そんなことない。そんなこと、思ってない。

「今日、泊まってってやろうか」

のろのろと鞄から鍵を取り出そうと探っていると、後ろからそんな言葉が聞こえてきた。その言葉が心底嬉しくてなんだかとても泣きそうになった。けれど、今ここで坂田さんの優しさを受け入れてはいけない気がした。何故かはわからない。坂田さんの優しさの全てに私が溺れてしまったらいけない気がした。寂しいことも、本当は一人でいたくないことも、気づかれるわけにはいかない。

「……きょ、」
「なーんてな。まだ飲み足りねぇからババアのとこでも行ってくるわ」
「…はい。送ってくださってありがとうございました」
「はいはい。ちゃんと戸締りして寝るんですよ」
「ふふ、お母さんみたい」

じゃあな。そう微笑みながら言って、頭をスルリと撫でて坂田さんは帰って行った。いつもは見えなくなるまで見つめるその背中を、何故だか今日は見ることができなかった。急いでいるわけでもないのに慌てて鍵を取り出して家の中に入ってそのままずるずると扉を伝って蹲み込んだ。


「さかたさん、」


坂田さんは、どうして私に優しくしてくれるんですか。良くしてくれるんですか。どうして私なんですか。そんなこと、本人に聞けそうにない。和田さんには簡単に聞けたのに。

坂田さんには聞けそうにない。和田さんは好きだからと答えてくれたけれど、坂田さんはなんて言うんだろう。




その問いの答えを、私はまだ聞きたくない。