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「ん…、」
ほんのりと暖かな光が瞼に当たりゆっくりと目を開けた。ズキズキと痛むこめかみ辺りを撫でながら体を起こすと、そこが坂田さんの家だとすぐにわかった。
え、なんで?お酒いっぱい飲んで、酔っ払って、飛鳥さんに怒られて、その後、坂田さんが来て…。
それから何があったんだっけ…
一生懸命記憶を辿ってみても何も思い出せない。どうして坂田さんの家で、寝ているんだろう。坂田さんはどこに行ったんだろう。
枕が二つ並んでいるから隣で寝ていたんだろうか。寝ていたであろう空間にそっと手を置いてみると、そこは少しだけひんやりとしていた。仕事に行ったのかな。誰もいない坂田さんの家は、勿論静かで、いつも感じる視線も、ドアを殴る音も、恐怖も、何もない。久しぶりに深く眠ることが出来て、二日酔いで頭痛がするもののすごくスッキリした。
そういえば、昨日坂田さんに飲みすぎたことを怒られた気がする。また怒らせてしまった自分が酷く嫌になった。どれだけ嫌われたら気がすむんだろう。きっと、ストーカーのボディーガードだって渋々やってくれているんだ。私はいつも、坂田さんを困らせて、怒らせて、嫌な気持ちにさせてばかりだ。見放したっておかしくないのに、坂田さんは優しいから私を助けようとしてくれる。そこに気持ちがなくたって、掬い上げてくれる。きっと坂田さんはそうやってずっと生きてきたんじゃないのかな。どんな人でも、どんな関わり方であっても、知り合った人を助けてしまう性分なんだろうな。
私だけが特別なわけじゃない。だから、変な期待はしない方がいい。自分が傷つくだけだって、わかってる。わかってるけど、期待しそうになる自分が嫌でしょうがない。
いつまでも布団の上にいても仕方がないと思い、布団から起き上がると同時に襖が開いた。そこにいたのは勿論坂田さんで、すごく眠たそうな顔で私を見下ろす。
「起きてたのかよ。起きてたなら出てくりゃいいのに」
「あ…えっと、あの、私、昨日…」
「お前さーなんでここにいんの?俺昨日のこと全然覚えてねェのよ。え…俺もしかしてお前のこと抱いた?」
「え?!え、と…そんなことはないと…思いますけど…」
昨日坂田さんが私のところに来た時、坂田さんが酔っ払っている感じは全然しなかったけど、実はかなり酔っていたのかな。私も昨日のことはあまり覚えていないから正直自信がない。でも、坂田さんが普通に話してくれることにすごくほっとした。
「だ、だよねー。よかったー。間違って抱いたのかと思ったわ」
「あ、はは。そんなわけないじゃないですか」
でもその言葉には少しだけ傷ついてしまった。私なんかが、傷つくことすら烏滸がましいのに。早くここから出よう。そう思い坂田さんにもう一度お礼を言って帰ることを伝えた。
「今日も仕事だっけ?」
「いえ、今日はお休みです」
「そっか。じゃあ家でゆっくり休めよ」
勿論引き止められることもなく、送ろうとはしてくれたけどまだ昼だからと断って家を出た。なんだろう。なんだか、すごく泣きそうだ。このまま家に帰るのも嫌で昼のかぶき町を当てもなく歩く。
何も考えずぼーっと歩いていたら普段あまり来ない所まで来てしまった。すまいるがある場所とは少し違って、昼のお店が賑わうその場所は、なんだか少しほっとする。辺りを見渡しながら歩いていたら、ある店がなんだか気になって立ち止まった。そのお店の中からは楽しそうな笑い声が響いていた。少し、入ってみたくなった。足をそちらに向けたと同時にお店の扉が開いて、人が出てきた。お客さんと、お店の店員さんかな。店員さんは人の良さそうな女性で、ニコニコと笑いながらお客さんを見送っている。お客さんが歩き始め、店員さんも店の中に入ろうと下げていた頭を上げた時、目があった。先程と同じ笑みを浮かべて右手をちょいちょいと上下に振っている。おいでって言ってくれてるのかな。止めていた足を進めてお店の前に着くと、話しかけられた。
「よかった。怪しいやつと思われたんじゃないかと思ったよぉ。うちのあんみつ、美味しいからよかったら食べていきなァ」
「あ、えっと…はい」
あ、先程の笑い声はこの人のものだったのか。お登勢さんよりは少し若いくらいの女性の名前は、幸江さんというらしい。店内に入り、カウンターに案内されたときに自己紹介してくれた。キッチンにはさちさんの旦那さんらしい人がいて、「お前またナンパしたのか」とケラケラ笑った。
「こんな可愛い子ナンパするに決まってるじゃないか!あんた、あんみつ出してあげて」
湯気のたつ湯飲みをそっと私の前に置きながら左手で旦那さんに向かって手を払う仕草をした幸江さんを思わずじっと見てしまって、私の視線を感じた幸江さんと目が合った。
「あんた、名前はなんて言うんだい?見たことないけど最近江戸に来たの?」
「あ、えっと…水城穂花と申します。江戸には、本当に最近来て…」
「ふぅ〜ん?江戸は合わないかい?」
「えっ?」
目があって、なんだかその瞳に吸い込まれそうになって思わず視線を机に落としながら名乗ったら幸江さんにそんなことを言われた。なぜそんなことを聞くのかと顔を上げると、私の隣に座った幸江さんと再び目が合った。
「辛気臭い雰囲気全開で歩いてたからねェ。今にも死にそうに見えたから思わず声かけちまったんだよ」
そう言う幸江さんは柔らかな表情だ。なんていろんな表情をする人なんだろうと思った。大きな声で笑ったり、さっきみたいに怒ったり、こんなお母さんみたいな優しい笑顔をしたり。そんなことを考えてしまって、無性に母に会いたくなった。
「ほら、またその顔してる。せっかくの可愛い顔が台無しだよ?ほらほら、笑ってみな」
「…っ」
「あらら、笑うんじゃなく泣いちゃったかい?」
そう言われて気がついた。私、泣いてる。
今まで堪えてこれたのに、なんで涙が止まらないんだろう。この涙は、なんだろう。悲しいのかな?それとも、優しくされて嬉しいのかな。どちらでもない気がする。じゃあこの涙は、一体なんだろう。そんなことを考えていたら優しく頭を撫でられた。そこでやっと分かった。
私は恋しいから泣いているんだ。元いた世界が、恋しくてたまらない。日常が、恋しくてたまらない。母が、恋しくてたまらない。でも元いた世界に戻ることは叶わない。私にはなにもない。それがなんとなくわかるから、涙が止まらない。
たくさん泣いて、幸江さんに笑われて、甘味処さちおすすめのあんみつを食べた。色とりどりの果物が乗ったあんみつは、甘くて酸っぱくて美味しかった。結局、甘味処さちには3時間くらい滞在していた。時間が経つのを忘れてしまうくらい、幸江さんの話は楽しかったのだ。そろそろ帰りますと言ってお会計をお願いした。すると、幸江さんは首を横に振りながらいらないと言う。食い下がると幸江さんは満面の笑みを私に向けた。
「それじゃあ今度いつでもいいから働きに来ておくれよ。私ももう歳でねェ、毎日この親父の相手しながら働くのがしんどいんだよ」
「てめェそりゃーこっちの台詞だ!」
「でも…」
これだけ今日お世話になったから代金は支払いたい。そう思ってもう一度食い下がろうとしたら、幸江さんに背中をぐいぐいと押されて扉の外まで連れて行かれた。
「アンタと話が出来て私も旦那も楽しかったから、それがあんみつ代でいいんだよ。…なにかあったらまたいつでも来な、穂花」
「…っはい、」
笑ってそう言ってくれた幸江さんは、私が道の角を曲がるまでずっと手を振ってくれていた。