25. ばいばい
「そういえば、」
俺の少し前を歩いていた名字さんが振り返った。
「明日開会式なんだよね?」
「うん、いよいよ始まるのか…、」
「今まで頑張ってきたんだから大丈夫だよ。頑張って、応援してるから」
「…ありがとう」
にこりと笑って、名字さんはまた前を向いて歩き出した。会話はそれっきりで無言が続く。
以前一緒に帰った時は会話が絶えなかったのに、今日は口数が少ない。それに加えて、歩く時も隣じゃなくて前後に並んでいる。何だか俺を避けているようにも感じるけれど、それは気のせいだって首を横に振った。避けているなら帰ろうって誘わないだろうし。
とにかく、今日の名字さんは何だか変だ。何かを無理矢理押さえつけているような感じ。
どうしたの?何かあったの?どうして一緒に帰ろうって誘ってくれたの?何でいつもと違うの?
聞きたい事はたくさんあったけれど、尋ねて彼女を困らせたくない。俺は開きかかった口を閉じて彼女を見た。
暫く、お互いに黙ったまま歩き続ける。途中何度か名字さんがちらりと俺の方を見てきたけれど、彼女は何も言わない。俺も催促しなかった。
ついに彼女の家に到着した。けれども、彼女は家の前で立ち止まり、俯いてしまった。どうしたんだろう、どこか具合が悪いのだろうかと心配になる。
「栄口くん、」
突然、名字さんが俺に抱きついてきた。
ガシャン、と隣で自転車が倒れる音がした。ふわりと微かに甘い香りが鼻を掠めて、我に返る。ひっく、と小さく泣く声が聞こえた。顔を俺の胸の中に埋めている彼女の背中にそっと手を回す。少しだけ力を入れて抱きしめると、彼女の肩がびくっと大きく揺れた。
「俺、名字さんの事が好きだよ」
自然と出た言葉。それに反応したかのように名字さんは顔を上げ、それから俺の体をゆっくりと押した。抱きしめていた手が解ける。彼女と視線がカチリと合った。
「ありがとう」
震える声で彼女はそう言う。ふんわりと、でも寂しそうに笑った。彼女の目元は赤くなっていた。
彼女はくるりと踵を返してドアに向かう。呆然としている俺に彼女はドアに手をかけたままゆっくりと振り向いた。
「ばいばい、栄口くん」
そう言った声はとても寂しそうで、彼女の瞳も悲しそうに揺れていた。
ガチャリとドアを開け、暗闇の中へと消えていく。バタンと閉まったそれを、俺は呆然と見ている事しかできなかった。
090827
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