04. するりと抜けた手


ある晴れた日、いつものように名前と孫兵が一緒にいると、向こう側から忍たまがやって来た。紫色の装束を身に着けており、四年というだけで身構えてしまうのは一つ下の学年である以上仕方のない事である。それに加えて、孫兵は毒虫を好んで扱っている、所謂毒虫野郎。学園の中にはそれを嫌う者もいて、彼らが孫兵に突っかかってくる事もしばしばあった。
自分に言いがかりをつけにきたのだろうと身構えていた孫兵だったが、今回は違うようだった。その忍たまは名前の真正面で立ち止まった。

「名字、この前の事だけど…」
「…この前の事って、何?」
「なんだ、忘れたのか」

名前が首を傾げると、忍たまは苦笑した。

「やっぱり他の人に頼めばよかったなあ」
「ごめん」
「謝らなくていいよ。名字って本当、何にも覚えてないんだから」
「何も、じゃないですよ」

聞き捨てならない言葉が聞こえ、孫兵は目の前の忍たまを睨んだ。

「名字先輩は座学ではいつも上位ですし、実技だってそう悪くありません」
「……と言ってもなあ」

孫兵の言葉に、忍たまは困ったように眉尻を下げ頭を掻いた。

「約束を忘れるってのは相当な事だと思うぞ。忍者は契約して金稼ぐもんだ。契約忘れていて破ったりなんぞしたら首切り確実だしな」

名字が忍者として生きていかないなら話は別だがなあ。そう笑って忍たまは踵を返して去って行った。
くるり、と孫兵は名前に向き直る。

「先輩、何で反論しないんですか?!」

孫兵の顔には、先程の四年生に対しての怒りが浮かんでいた。名前はその様子を眺めながら質問に淡々と答える。

「だって、私が覚えていないのは本当の事。それに、悪口とか興味ないから」
「…悲しくないんですか?」
「いや、別に」

平然としている名前に、孫兵は空しさを感じた。思わず俯く。
どうしてこの人は自分が悪く言われても無関心でいられるのだろう。本当に興味ないだけなのか、それとも、もう言われ慣れてしまっただけなのか。確かに、先輩は色々なことをすぐに忘れてしまうけれど、それにはきっと何か原因があるはずなんだ。先輩は決して駄目な人間じゃない、僕の尊敬する、大好きな人だから――。

「……先輩、」
「何?」
「あいつらは先輩の事悪く言っているけれど、僕は先輩が好きですよ」

つい出てしまった言葉。先輩を大切に思っている人間はいるのだと伝えたくて、こんな自分が言うのもなんだけど、先輩に人間を嫌いになってほしくなくて。できればもう少し後になってから言おうと思っていたけれど。
孫兵はじっと名前を見つめる。それに対して、名前はちらりと孫兵を見ただけ。
どれだけ時間が経っただろうか、やがて名前は孫兵に向き直り、口を開いた。

「ごめん」

たった一言、そう言って背を向けて歩き出す名前。その様子に、孫兵は慌てて声をかけた。

「先輩!待ってください…!」

なんとか名前に追いつく。逃げないよう、その左手を掴んだ。

「僕は先輩を大切に思っています。僕の何が悪かったんですか…?」

孫兵は必至に名前に問いかける。ここで振られてしまったら、今までのように一緒にいることはもうできない。何とかして名前に受け入れてもらいたい…!
そんな孫兵の心情を知ってか知らでか、名前は一度振り返り、右手で孫兵の頭をそっと撫でた。

「私といたら幸せになれないよ」

捕まえてあった左手がするりと抜けていった。遠ざかっていく名前を追いかけぬまま、孫兵はその場で立ち尽くす。

「僕は先輩といるだけで幸せでした」

そう呟くと、乾いた地面にぽつりと涙が落ちた。


120207


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