その声は確かに震えていたんだ
仕事を終えて、伸びをしながら時計に目をやれば、既に日付は変わっていた。ついさっきまで集中していたせいか、眠気は全くない。
何か温かいものでも飲みながら、本を読んでいれば、じきに眠気がやってくるだろう。本棚から読みかけの本を取り出して、司書室から出た。

日中はにぎやかな食堂だが、今は誰もいない。明日――というか、もう今日だけど――は朝から潜書の予定だから、もう休んでいるのだろう。午後からしか予定がない時には、お酒好きの文豪達が遅くまでここで飲んでいることもある。

「……あれ?」

食堂の奥、調理場の明かりがついていた。それだけではなく、水の音が聞こえる。誰か喉が渇いたか、お腹がすいたかで目を覚ましたのかもしれない。この時間だと食事は提供されないが、各自が何か作って食べるのは自由になっている。

「堀先生?」

調理場にいたのは堀先生だった。私が自分の力で初めて転生させた文豪。どうやら手を洗っていたらしい。

「……っ!司書さん」

私に気付いたのか、水をとめてこちらを向いた堀先生の顔はいつにも増して白く、声は微かに震えていた。

「どうしたんですか?顔色悪いですよ」
「大丈夫です。ちょっと、目が覚めてしまって……」

全く大丈夫ではなさそうな顔色でそう言うから不安になる。堀先生は普段から自分のことより他人のことを気にする。

「あの、もしかして、体調悪いですか?」
「体調……?元気ですよ」

首を傾げる先生は不思議そうにしていて、具合が悪いわけではないらしい。少しほっとした。

「正岡先生、たまに咳き込んで苦しそうですよね。転生してからも、そういう影響ってあるのかなと思いまして……。堀先生ももしかしたら、と」
「それは今のところ感じたことがないので、大丈夫だと思います」

大丈夫だとは言うけれど、何かに怯えているような目をしていた。無理に聞き出すわけにもいかず、とりあえず話題を変えてみる。

「眠れそうですか?私、何か温かいものを飲もうと思ってきたんです。よければ、堀先生も」
「あ、僕が入れますよ」
「いつも入れてもらってますから、たまには私にやらせてください」

小鍋で牛乳を温め、蜂蜜を少し加え、2つ並べたカップにそれを注ぐ。堀先生はその様子をじっと見つめている。

「どうぞ」
「ありがとうございます。……温かいですね」

両手で包むようにカップを持った先生は、いつもよりぎこちない笑みを浮かべていた。

食堂の方に移動して椅子に腰掛けると、ホットミルクを一口飲んだ堀先生はゆっくり話し始めた。

「夢を、見たんです」
「怖い夢ですか?」
「はい」
「蛇でも出ました?」

理由はわからないけれど、蛇がかなり苦手なことを思い出して訊ねてみる。写真を見ただけでも嫌がっていた。
先生は静かに首を横に振ると、何か言いかけてやめた。もう一度言いかけて、やはりやめてしまう。

「冷める前に飲んじゃいましょうか」

そう声をかけてから、一口飲んだきりになっていたホットミルクをゆっくりと飲んだ。どうすればいいのだろう。話を聞くべきなのか、そっとしておくべきなのか、励ますべきなのか……。
不意に堀先生が咳き込んだ。むせたのかなと軽く考えていたら、先生の手からカップが落ちた。

「先生!?」

明らかに様子がおかしかった。口元を手で覆って、激しく咳き込んでいる。何より、表情がこわばっていて、ただむせているだけには見えない。慌てて背中をさする。

「大丈夫ですか?先生?」
「……嫌だ」

絞り出すような声に胸が痛んだ。さっきと同じだ。何かに怯えている。
その様子を見ていて、ふと頭に浮かんだのは、堀先生の年譜に何度も出てくる「喀血」という文字だった。とても長い間、病気と一緒に、死を近くに感じながら生きていた人なのだということは知っていた。だから、優しく穏やかで一見気弱そうに見えても、芯は強い。それでも、辛くなかったわけがない。

「大丈夫、むせただけですから。心配することないですよ」

夢を見て不安になっていた時に、転生してからも病気の影響があるんじゃないかなんて言われたら、更に不安になるだろう。知らなかったとはいえ、悪いことをしてしまった。必死に手を洗っていたのは、夢の中で血がついていたからだろうか。
ひたすら大丈夫だと繰り返して背中をさするうちに、どうにか落ち着きを取り戻したらしい堀先生はこちらに顔を向けた。

「うぅ……ごめんなさい」
「いえ、不安にさせるようなことを言ってしまってすみません」
「気にしないでください。ちゃんと、夢だってわかってます。ただ、今日のはちょっと生々しかったので」

「今日のは」ということは、今までにも似たような夢を見ていたのだろう。そういえば、たまに眠そうな顔をしていることがあった。文句も言わずに働いてくれるから、ついつい頼ってしまっていたけど、無理をさせていた時もあったのかもしれない。

「そんなに無理しなくていいですからね。辛い時は辛いって言っていいし、私にできることがあれば言ってください。もっとわがまま言っていいですから!」

堀先生はもう少しわがままになってもいいと思う。勝手なことばかり言ってる人もたくさんいるんだから。

「ありがとうございます。でも、司書さんから頼ってもらえるのは嬉しいので、何か頼まれて辛いと思ったことはないです」
「でも……」
「よく助手を任せてもらえるのも、僕が特別みたいで嬉しいです。これからもそうでありたい、っていうのは、わがままになりますか?」

にこりと笑う堀先生は、いつもの堀先生だった。今すぐは無理かもしれないけど、少しずつ頼ってもらえるように頑張ろうと密かに決意して、私は笑い返す。

「じゃあ……これからもお願いします」
「はい」

170115
title by るるる
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