夏と陽炎の向こう側
※史実の芥川さんの死に軽く触れています。苦手な方はご注意ください。

芥川の夏。陽炎の先、笑顔の君が手を振る。待ってよ、と伸ばした手は届かなくて、君はどんどん遠ざかる。追いかけても、追いかけても、歪んでは消えていく。夏が、君を連れていく。
(診断メーカー「君と過ごす夏」)


「芥川さん」

もうすっかり聞き慣れた心地よい声。最初は「芥川先生」と呼ばれたが、先生と呼ばれるのはあまり好きじゃないと言ったら、皆さんを先生と呼んでいますし……と渋っていたものの、「芥川さん」で落ち着いた。あまり迷惑をかけるんじゃないと菊池には怒られた。
なんだかんだで名前は芥川に甘かった。本当は禁煙の場所でも、仕方ないですねと言って見逃してくれたし、長い髪を乾かすのが面倒だと言ったら、私でよければと乾かしてくれた。菊池が「そんなに龍に気を遣わなくていい」と注意するくらいだ。よく助手を務めている菊池は、必要な仕事以外にも名前が芥川の世話を焼くから、負担が増えることを心配したのかもしれない。

「芥川さん」

ぼんやりと見えていた彼女の姿が次第にはっきりしてきた。それでも揺らめいて見えるのはなぜか。陽炎だと芥川は気付く。地面から透明の炎が立ち上っているのだ。

今日と明日の潜書は全部休みだと菊池が告げた時、食堂は騒がしくなった。元々決まっていた休日以外に仕事がなくなるのは初めてのことだった。助手を務めている菊池は説明を求められ、司書の体調不良だと答えた。最近暑かったし、疲れもあるんだろうと。
思い返せば、最近名前の顔色が悪かった気がした。食堂で見かけた時も、かなりの量を残していた。いつから具合が悪かったのだろう。

彼女は陽炎の先でこちらを見ていたが、片手を上げたかと思うと芥川に向かって手を振り始めた。

「待って!」

どこかに行ってしまうような気がして、芥川は声を上げた。しかし、名前はそれには反応しなかった。手を振って、芥川を見つめたままなのに、徐々に遠ざかっていく。

「待ってよ!司書さん!」

手を伸ばすが届かない。追いかけているつもりなのに、距離は縮まるどころか開いていく。彼女が遠くなっていく。彼女の姿が揺らぎ出した。陽炎に飲み込まれるかのように消えていく。

「待って!!」
「芥川さん!」

手を伸ばしながら叫んだ時、すぐ近くで名前の声がした。

「芥川さん、わかります?耗弱状態だと思ったんですけど……様子がおかしいし、もしかして体調悪かったんですか?魘されていただけ?」

芥川の手は名前の手首を掴んでいた。そこから伝わる体温は普段のものより少し高い。

「大丈夫……夢を見ていたんだよ」

名前が安心したように息を吐いた。その顔色はやっぱり優れない。昨日も一昨日も休んでいて、病みあがりなのだから当たり前だ。今日だって微熱があるなら寝ていた方がいいと言われたのを振り切って、仕事に戻ったのだから。

「まだ本調子じゃないのに、心配かけちゃってごめんね」
「いえ、私はもう大丈夫ですから」

そんなはずはないのに、名前の姿が揺らいで見えて、芥川は一度は緩めた手に力を込めた。

「どうしたんですか?」
「司書さんが消える夢だったんだ」

答える声が震えた。ひどく怖かった。伸ばした手は届かなくて、どうしようもなくて。

「消えてしまうのは、怖いですね」

名前は穏やかな声で答えた。私も芥川さんが喪失になると、消えてしまうんじゃないかって怖くなるからわかりますよ、と。

「ねえ、芥川さん」
「うん?」

瞳が不安げにゆらゆらと揺れていた。珍しいと芥川は思う。彼女は年齢の割に随分冷静なのに、まるで迷い子のような顔をしている。

「昨日が何月何日だったかわかりますか?」
「えぇ?……7月24日……」

そこまで言って、芥川は名前が言いたかったことに気付いた。そして、もしかしたら、彼女の体調不良にもそれが関わっていたのかもしれないと思った。

「越えられないんじゃないかって、不安だったんです。菊池先生にも相談して、大丈夫だって言われたんですけど、どうしても怖くて」

7月24日の未明に薬を飲んで、その日の朝、目覚めることはなかったのだ。そこで終わってしまった。秋を迎えること、いや8月を迎えることもできなかった。

「ああ、うん……そうだね」
「もう大丈夫だと思ったのに、芥川さん、耗弱状態になるし……」

自分がさっき夢で感じていたよりずっと長い間、名前は不安だったはずだ。7月24日のずっと前から、その日が来るのを不安に思っていたのだろう。

「僕はここにいるよ」
「わかっています」
「だから、司書さんもここにいてね」
「……はい」
「これからも、よろしく頼むよ」
「あんまり世話を焼くと、菊池先生に怒られてしまうんですけどね」

名前がくすくすと笑うから、芥川も笑った。先のことはわからないけれど、秋、冬、春、そして次の夏も、彼女の隣で迎えられたらいいと思った。あの夏の向こう側に進んで行こうと思った。

170901

本当は7月24日前後に書きたかったお話。上手くいかずに放置していたものを大幅に変更して、やっと書き上げました。


ALICE+