きみは時々魔法を使う
後悔したことのない人間なんて、きっと存在しない。ああすればよかった、あんなこと言わなければよかった……誰しもそんなことをたくさん抱えて生きている。


「太宰先生、手を出してください」
「……手?」

広げた手のひらの上に白く小さな消しゴムが転がる。何の変哲も無いそれに太宰は首を傾げた。わざわざ渡すような物だろうか。これを落とした記憶もない。

「それがなんでも消す事のできる消しゴムだって言ったら、先生、信じますか?」

突拍子もない言葉に太宰は瞬きを一つした。へ?と小さく声を上げる。

「なんでもって、インクとか?」
「そういうことじゃなくて、後悔していることとか、今ある感情とか、嫌な記憶とかです」

そんな小説の中にしか出てこないような物があるのだろうか。感情や記憶を消せるなんて信じられなかった。

「面白いかなぁと思って作った試作品なので、どの程度の効果があるかわからないんですけどね」

自分の記憶から消えるだけなのか、他の人の記憶からも消えるのか、それについて書き残している場合、その文字はどうなるのか。
まだ実験していないし、全てから消えてしまうのだとしたら、実験したとしても結果がわからないだろう。

「あ、でも、文学史に関わるようなことは消さないでくださいね。私達は文学を守るために動いているのに、文学史を変えてしまうなんて、あってはならないことですから」
「試してないってことは、司書さんはないの?」
「え?」
「消したいことだよ」

名前は少し考えてから、そうですねとゆっくり話し出した。

「ないとは言えませんが、消してしまうのは嫌かな。最近だと、先生方に失礼なこと言っちゃったなとか、伝え方を間違えたなとか思うこともありますけど、それがあったから近付けた部分もあると思うし……」

まあそうだろうなと太宰は思った。名前は真面目で芯が強く、健全なのだと思う。逃げることや投げ出すことは似合わない。

「最近たくさん手伝ってもらってますから、もし太宰先生のお役に立てるなら。効果が薄かったらすみません」

◆ ◆ ◆


太宰は消しゴムを手のひらの上で転がす。真っ白で汚れはないが、新品の形ではなく丸みを帯びているからよく転がった。
名前によれば、消したい内容を紙に書いてこの消しゴムで消すという至ってシンプルな使用方法だった。
何でも消していいと言われたら、この消しゴムでは足りないくらいにたくさんの後悔がある。迷惑をかけた人がいるし、今になって読み返すと破り捨てたくなるほど恥ずかしい文章も残っている。消すことができたら、楽になるかもしれない。転生してから今までにだって後悔はある。

「お前に何がわかるんだよ。死にたい気持ちなんてわからないくせに勝手なこと言うなよ」

そんな言葉をぶつけた時、名前はひどく傷付いた目をしていた。当たり前だ。そんな当たり前のことが想像できないくらい、あの時の太宰は混乱していた。全部消えるのだろうか。名前を傷付けたという事実まで、綺麗に消せるのだろうか。
むしろ感情を消せるなら、すぐ不安になったり、死にたくなったりする気持ち自体を消してしまえば楽に生きられるような気もした。

とりあえず紙に名前にぶつけた言葉を思い出せる限り正確に再現し、そこに鉤括弧をつけ、「と言ったこと」と書き加えた。少し考えてから最初に「名前に」と付け足した。そのすぐ隣に不安、劣等感、自殺願望と書く。
ごくりと唾を飲む。消してしまえば楽になるかもしれないと思ったのに、消しゴムを持つ手が震えた。
感情を消してしまったら、それは本当に自分自身なのか。不安を抱えているのが太宰治という人間ではないのか。
名前に激しい言葉をぶつけたことを謝っただろうか。一方的に消してなかったことにして、それは解決と言えるのか。
太宰は消しゴムを紙の上に落とした。頭を抱える。考えていると消してはいけないような気がしてきた。

◆ ◆ ◆


ころりと名前の机の上に消しゴムを転がす。簡単なメモでも残そうと考えていると、ちょうど司書室に戻って来た名前があれと声を上げた。

「もういいんですか?もしかして効果ありませんでした?」

何か間違えていたかなぁと呟きながら消しゴムを拾い上げた名前はもう一度あれと言った。

「使わなかったんですか?」
「何か一つでも消したら、それはもう俺じゃないし」

名前は優しい顔で笑った。なるほどと頷く様子を見ていると、全部彼女の計画通りだったのではという気がしてくる。普段は抜けているところもあるのに、ふとした時に鋭いなと思うことがあった。
記憶があるのだから、二度目の人生と言ってもいいはずの太宰と違って、彼女は20年そこそこしか生きていないのに、全部見透かされているように感じることがある。それこそ魔法のように。まあ、太宰から見れば、錬金術も魔法のようなものなのだが。

「なんか悔しいんだけど」
「悔しい?何がですか?」

太宰はため息をついた。全部わかってんじゃないのと詰め寄りたい気持ちもあったが、それはやめておいた。情けないところなんて何度も見られているから今更だが、余裕がないのは格好悪い。

「別に。……俺は天才小説家だから、消したいものなんてないんだよ!」

名前はそうですねと言って笑った。

「……あと、結構前だけど、酷いこと言ったのは悪かったと思ってる」

名前は笑いを引っ込めて首を傾げた。使われなかった消しゴムを見つめる。

「これ……何か別の効果とかあるんですか?」
「どういう意味だよ!?」
「冗談です。改めて謝ってもらうほど酷いことは言われてないと思いますよ」

机の引き出しを開け、消しゴムを中に入れて鍵をかける。また何か便利な物ができたらプレゼントしますねと言われて太宰は頷いた。これでよかったんだと自分に言い聞かせるように心の中で呟きながら。

「でも、新しいものを作るには時間がかかるので、お時間あるなら明日にでも喫茶店に行きましょうか」
「へ?」
「だから、最近手伝ってもらっているお礼です。そうだ、永井先生から教えていただいたカフェも素敵でした」
「俺とどこかに行きたいって言うなら仕方ないな」
「本当ですか?じゃあ、行きましょう」

きっと色々見透かされているのだろう。悔しい部分もあるが、まあいいかと思えた。既に明日が楽しみになっている自分に内心苦笑しながら太宰は軽く頷いた。

171016

企画サイトレイアの爪痕さまに提出しました。
テーマは「なんでも消す事のできる消しゴム」。自分では思い付かないようなテーマで楽しく書けました。


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