夜のキッチン
「……楽しいですか?」

頬杖をついて、ただこちらを見つめている高村さんに問えば、彼は笑顔で楽しいよと答えた。20分くらい生地をこね続けていただけなのに、それを見ていて何が楽しいのか私には理解できなかった。こね終えた生地は約1時間発酵させなくてはいけない。待っている間、何か温かいものを飲もうと紅茶を準備する。まだここにいるつもりらしい高村さんの分も一応準備した。

「ありがとう。……真夜中に一心不乱に生地をこねているから、何事かと思ったよ」

そう、今は夜中の1時を少し過ぎたところ。私は眠れない夜にパンを焼く。実家で暮らしていた時はそんなことしなかったけれど、一人暮らしを始めた大学生の頃も、社会人になってからもそうだった。きっかけも初めて焼いた時のことも思い出せないけど、何年か前からそうなのだ。

「眠れないの?」
「たまにですよ。たまに普段どうやって眠りについていたかわからないくらい、眠れない時があるんです」

眠気を呼ぶ機能がぴたりと動きを止めてしまったように、全く眠くならない。それは子供の頃からたまに起きる現象だった。無理に眠ろうとすると気持ちが悪くなったり、呼吸が苦しくなったりするものだから、枕元の明かりをつけて本を読んだり、テスト前なら勉強したりしていた。眠ることを放棄してしまえば、何も問題なかった。

「パンを焼く必要はないんですけどね」

パンを焼くのは嫌いじゃないけど、大好きというほどでもない。ただ、静まり返った真夜中に生地と向かい合っていると、不思議と気持ちが落ち着く。バターの香りが心地いい。多分、それだけのことだ。

「高村さんこそ、眠れないんですか?」
「いや、彫刻に没頭していたら時間が過ぎていて、寝る前に飲み物をもらおうと思って食堂に来たんだ」

それなのに飲み物も飲まずに私が生地をこねるのを見つめていたのかと思うと、変わっているなぁと思ってしまう。

「焼き上がるのは4時頃ですよ。眠らなくて大丈夫ですか?」

私は眠れない夜は一睡もしないし、それで日中の行動に影響が出たことはない。高村さんだって徹夜くらいしたことはあるだろうけど、明日……じゃなくて今日は潜書の予定もあった気がする。

「潜書は午後からだから、眠ければ午前中に寝ておくよ」
「そこまでして見るようなものじゃないと思いますが」
「あ、邪魔なら戻るけど」

私は首を横に振る。誰も立ち入らせない神聖な儀式とかそういうものじゃないし、真夜中の孤独を噛みしめているわけでもない。私は何となくパンを焼いているだけだ。
2倍くらいに膨らんだ生地を二等分にして丸める。濡れた布巾をかけて、今度は10分ほど休ませる。その間に型にショートニングを塗っていく。

「図書館に来てからも何度か焼いてるんだ?」
「そうですけど、なんでわかったんですか?」
「朝食の時にパンが出ることがあったなと思って」
「ああ、私が焼いたものです。1人じゃ食べきれませんから」

生地を麺棒で伸ばし、楕円形にしたものを三つ折りにする。くるくるっと巻いてつまんで閉じて、型に入れたらまた1時間発酵させる。高村さんはやっぱり笑顔で私の手元を見つめていた。

「パンの会って、初めて聞いた時はパンを食べながら話す会かと思いました」
「ああ、パンだとそっちを連想するか……。牧神の名前なんだけど。まあ、後半は単なる酒盛みたいになっていたから、酒を飲みながらよりは、パンを食べながらの方が上品でよかったかもしれない。白秋さんがまたパンの会を開かないかって言っていたけど、今開いたら酷いことになるのは目に見えてる気がするんだ」
「それは、まあ……そうですね。収拾がつかなくなりそう」

高村さんと話したり、本を持って来て読んだりしているうちに時間は過ぎた。私が生地の様子を見に行くと、高村さんも後ろからついて来た。

「へぇ、かなり膨らむんだね」
「そうですね。あとは焼くだけです」

オーブンを予熱し、型の蓋にショートニングを塗ってから蓋をする。温まったオーブンに生地をいれ、しばらくすると香ばしい匂いが食堂を満たす。そして、外もうっすら明るくなり始めている。

「こうやって膨らんで行くのを見ているのが好きなんです。育っていくというか、自分が作ったんだって感じがして」

膨らむパンで心も満たされていくような気がする。不思議な達成感もあって、清々しい。焼き上がったらすぐに型から取り出して粗熱をとる。

「パンって焼き立てが美味しいわけじゃないんですよ。冷めてからの方が水分が全体に行き渡るんです」

本当は焼き上がって6時間後が一番美味しいらしいけど、普段は4時に焼き上がって5時過ぎに食べる。5時なら早い朝食と言ってもいいような気がする。

「それにしても……どうして付き合ってくれたんですか?暇だったでしょう?」

やっぱり疑問だった。単調な作業だし、見ていて楽しいものじゃない。眠れるのならこの時間を睡眠にあてた方がいいはずだ。

「さあ、どうしてだろうね」

にこりと笑う高村さんははぐらかそうとしているようにも見えた。図書館の中では常識人に分類されそうな彼だが、なんだかんだで読めない人ではある。
パンの匂いで満たされた部屋には穏やかな時間が流れていて、追及しようとは思わなかった。気まぐれということもあるんだろう。

◆ ◆ ◆

冷めたパンを切り分け、2枚をトースターで軽く焼いた。冷蔵庫から取り出して切ったバターを乗せると、バターが溶け出す。

「美味しそうだね」
「でしょう!」

思ったよりも弾んだ声が出た。焼いたパンを目の前で誰かに食べてもらうのは初めてかもしれない。

「あ……美味しい」

思わずこぼれたような呟きに笑ってしまう。カロリーを考えると怖いけど、バターが染み込んだ食パンはとても美味しい。蜂蜜もジャムもいらない。バターだけで十分だ。
高村さんがいれてくれた珈琲を飲んでふうと息を吐く。窓から光が射し、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。徹夜したとは思えないくらいに爽やかな朝だ。眠気は全くない。でも、高村さんは若干眠そうに見える。私だって普通の日に徹夜したら眠い。

「眠いですか?」
「少し」

高村さんは私の分の珈琲しか用意しなかった。多分、これから眠るつもりなんだろう。

「またこういう日があったら、声を掛けてよ」

立ち上がりかけた高村さんがそう言った。眠い思いをしてまで私に付き合う意味があるだろうか。焼き立てのパンが美味しいならわかるけど、冷ましたのを焼いて食べるんだから朝食に食べるのと変わらない。

「私はいいですけど……」
「ありがとう。楽しい時間だったよ」

楽しかったのならよかったけど、やっぱりよくわからないなぁと考えていると、高村さんはおやすみと言って食堂を出て行った。

私はもう1枚パンを焼いて同じようにして食べる。美味しいけれど、さっき高村さんと向かい合って食べた方がずっと美味しかった気がする。冷めかけの珈琲を飲み干し、片付けを始めることにした。
まだ食堂に残るパンが焼けた匂いを吸い込んで、さっきまでの穏やかな時間を思い返す。多分私は、次の眠れない夜には高村さんに声を掛けるのだと思う。

180116

主催企画サイト黒猫は迷わないに提出したもの。


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