泣いてない子の慰め方
ノックの音がして返事をすると、司書室のドアが開いて三好先生が顔をのぞかせた。

「梶、見なかったッスか?」
「いえ、今日は朝ご飯の時に食堂で見かけたっきりだと思います」
「そうッスか。見かけたら、俺の部屋に来るよう言っておいてもらえます?」
「はい」
「……あと、あんまり部屋を散らかさないようにして欲しいんスけどね」

顔を引っ込めかけた先生はドアを開けて部屋の中を見渡した。どきりとしたが、ただ部屋の汚さを注意されただけだった。まだ散らかってない方だと思うのだが、三好先生からすると駄目らしい。

「……善処します」

ぱたんとドアが閉まって、私は大きく息を吐いた。机の影に小さくなって隠れていた梶井先生が立ち上がって伸びをする。やれやれと呟くものだから、やれやれは三好先生の台詞なんじゃないかなとぼんやり思った。
坂口先生に梶井先生、気にかける対象が2人も増えて、大変じゃないのだろうかとたまに思う。最初の方から萩原先生の世話は焼いていたし。まあ、私も若干そこに入っている気がしなくもないのだけど。いや、坂口先生の部屋の散らかりように比べれば、全然汚くないと思うよ。

「心配してくれてるんだろうけど、達治はちょっと口うるさくてね。母親じゃないんだからってたまに思うよ」

思わず笑ってしまうと梶井先生は何か面白かった?と言った。

「坂口先生も似たようなことを言っていたなぁと思って。何度か匿ったことがあるんですけどね」

私も三好先生からは説教される側だから、逃げたくなる気持ちはわかる。安吾!と声を荒げて追いかけていた様子を見ると、私に対してはまだ気を遣ってくれているのだろう。梶井先生にも多分容赦ないんだろうなと予想はつく。

「三好先生は心配してるんですよ、本当に」

なるべく穏やかな声でそう言ったら、梶井先生は俺だってわかってるよと答えた。置いていかれた側の人間は、置いていった側の人間をひどく心配する。三好先生に限ったことではない。特に年下に先に逝かれたり、若くして亡くなってしまった場合は印象に残っているから、心配になるのかもしれない。
梶井先生には当てはまらないけど、自ら命を絶ったとか死に方にもよるのだろう。これに関しては芥川先生や太宰先生が自殺未遂のようなことを既にしているから杞憂にすぎないとは言い切れないのが頭の痛いところではある。

「ん?考え事?」

不意に顔をのぞきこまれて驚いた。綺麗な金色がふわりと揺れる。本人にも自覚はあるようだが、梶井先生は目立つ容姿をしている。
先生からは柑橘系の香りがした。前に部屋に檸檬を置いていったことを思えば、多分檸檬だろう。著作の影響か、檸檬を好んでいるらしいから。

「ちょっと仕事のことを考えてました」
「忙しいんだな。達治は君のことを仕事ができるって評価してたよ」
「整理整頓はできないけど……とは言ってませんでしたか?」

笑みだけで応えたということは、多分言っていたのだろう。

「……達治は俺より随分潜書に慣れているんだね」
「それはまあ、経験の差でしょう」
「だから、俺と違って滅多に喪失状態にならないんだろうけど、一度だけ見たんだ」

ああ、と小さく声がもれた。三好先生が泣いているところを見たんだろうか。もしかしたら、梶井先生からすれば意外だったんだろうか。

「達治が俺について何か言ったことはあるかい?」

一瞬、何を聞かれているのかわからなかった。喪失の話から突然梶井先生のことを言っていなかったかときた。
喪失状態の時じゃないけど、梶は悪い奴じゃないけど、たまについていけなくなるみたいなことはよく言っていると伝えれば、先生は珍しく悩むような仕草を見せた。どうやら望んでいた答えとは違ったらしい。

「梶井先生と三好先生は遠慮なく言い合ってるのかと思ってました」

気になることがあるなら、面と向かって訊けばいいのにと思いながら言えば、梶井先生はどうだろうねと呟いた。

「少し前に言い合ってる途中で、お前は何も知らないだろって怒鳴られたんだ」
「何も知らない?」
「そう、多分、俺が死んだ後のことを指して言ったんだと思う」

確かに梶井先生が亡くなった後も三好先生は何十年と生きたはずだ。それなら、知らないことが多くても無理ない。

「その後に、知って欲しいわけじゃないってぼそっと言われて。お前は知らなくていい、とも言ってたかな。文字でなら軽く読んだんだけど」

言いたいことはなんとなくわかった。文字で読んだって理解できないのだ。あの時代を生きた人にしか理解できないものがあって、それより前に亡くなった梶井先生は、後に生まれた私と同じようにわからないのだ。
とりわけ、戦争詩やら文学者の戦争責任やらは戦争から遠ざかってしまった今ではどう捉えればいいのか難しい部分がある。確か、三好先生も糾弾された文学者の1人だったはずだ。
他にも結婚に離婚に、まあ複雑なものが色々あったようである。私も読んだだけだから、全然わからないのだけど。

「突き放された気がするよね、知らないだろって言われるのも、知らなくていいって言われるのも」
「そう、ですね。それはよくわかります」

そういうことなら、梶井先生以上によく言われているから。仕方がない。生きた時代が違って、知識量も違うんだから、知らないだろ、理解できないだろと言われて当たり前だ。
仕方ないけど、寂しくはなる。何も言い返すことができないし、理解できないから。

「喪失とか追い詰められた状態なら、達治の本音も聞けるかと思って」
「お役に立てなくてすみません」
「君は悪くないよ」

どこか寂しげな表情で遠くを見る梶井先生。彼も寂しさを感じているのかもしれない。転生するまで面識のなかった人に突き放されるより、昔付き合いがあった人に突き放される方が辛いに決まっている。

「でも、三好先生は梶井先生のことを待っていましたよ。梶井先生が来る前から名前をよく口にしてましたし、先生が転生するかもしれないとわかった時に一番張り切っていたのも三好先生でしたから」

驚いたような顔。珍しい反応だなぁと思う。飄々としているというか、捉えどころがないというか、そんな印象だったから。

「達治が……」
「知らないことがあったって、覚えてないことがあったって、皆さん、なんだかんだで上手くやってるみたいですから」

記憶に欠落がある人もいる。面識があったはずなのに、覚えていない人もいる。ぎくしゃくした時期はあったかもしれないが、私から見れば結局は上手くいっていた。
三好先生だって、過去を必要以上に掘り返す気もないだろうし、梶井先生に恨み言を言いたいわけでもないだろう。

「時間が経てば、それこそ梶井先生が潜書に慣れる頃には、大丈夫になりますよ」

梶井先生はこくりと頷いた。

「ありがとう」
「いえ」
「達治だけじゃなくて、俺は君とももっと親しくなりたいかな」
「……はい?」

そんな言葉を残して、梶井先生は司書室から出て行った。残ったのは微かな檸檬の香り。
さっきの言葉は揶揄われただけなのか、冗談でないとしたら気に入られるようなことを言っただろうか。考えていたら何となく恥ずかしくなってきて、それを振り払うように机の上に散らばった書類や文具を片付けることにした。

171102
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壱万打企画リクエストより
匿名さま / 梶井基次郎 暗めの話


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