夢の名残と朝の匂い
ぼんやりとした淡い色彩の世界だった。どこからか優しい音楽が聞こえてくる。

遠くに大切だったあの人が見えた。あの人は楽しそうに笑っていた。こんなに離れているのだから、はっきり見えるはずがないのに見えた。

最愛の人に手を伸ばす。遠いから届かない。近付こうと思うのに、距離は一向に縮まらない。むしろ、ゆっくり遠ざかっていくようだった。

触れたくて伸ばした手を止める。わかっていた。近付けないのも、触れられないのも、最初からわかっていた。

音楽が小さくなっていき、淡かった色が更に薄くなっていく。遠くに見えていた笑顔はすっかり見えなくなった。

▲ ▼ ▲


「……夢、か」

もう見慣れた天井。そこは自分の部屋だった。まだあの優しい音楽が響いているような気がする。あれは何という曲だっけ。聞いた覚えがあるはずだ。ぼうっとした頭で考えながら、ごろりと寝返りをうつ。
普段なら目を覚ます頃にはカーテンの隙間から光が射し込んでいるのだが、今はまだそれがない。随分早く起きてしまったらしい。ただ、ぼんやりと明るいから、明け方ではあるだろう。
再び目を閉じる気にはならず、のろのろと起き上がってカーテンを開ける。コーヒーでも入れて目を覚まそうと決め、身支度を整えて食堂に向かった。

さすがにこの時間なら食堂は無人だろうと思ったが、中に入った途端にほろ苦い香りが鼻をかすめる。それとほぼ同時に、両手でマグカップを包むように持っている司書と目が合った。

「高村先生?」

驚いたように目を見開いた司書に、おはようと声をかけると、おはようございますと返ってきた。マグカップを机に置き、司書は高村の近くまで歩いてくる。

「早いんですね」
「目が覚めてね。……眠そうだけど、君は徹夜かな」

司書はぎくりと固まり、徹夜ではないですと小さく呟いた。頑張るのはいいことだし、自分達が不自由しないよう気を配ってくれる司書には感謝していたが、働きすぎるのは少し心配でもあった。

「気付いたら寝てしまっていたみたいで。ある程度眠ったはずなんですが、やっぱり横にならないと駄目ですね」
「無理はしないようにね」
「はい、すみません」

今まで何度も繰り返されたその言葉に司書は素直に頷いた。

「あっ!そうだ!お誕生日、おめでとうございます」

パッと笑顔になったかと思うと、司書は祝いの言葉を口にした。そうか誕生日だったと高村は思い出す。転生してから何度か他の文豪が祝われるのは見てきた。今日は自分の番か。

「ありがとう、嬉しいよ」
「お祝いしたの、私が最初ですか?」
「そうだね。今日はまだ他の人には会っていないから」

なんとなく満足気な司書を見ていると、悪い気はしなかった。コーヒー飲みますかと訊かれ、すっかり忘れていた食堂に来た目的を思い出す。入れますよと言ってくれた司書に頼むことにして、高村は窓際の席に座った。
ほどなくして、司書は2つのマグカップを持ってきた。2杯目?と訊ねると眠いのでと苦笑いで返された。温かいコーヒーを一口すする。苦味が広がって少しは頭がはっきりする気がした。

「あれ」

司書は窓の方に目を向けたかと思うと、立ち上がって夜閉めたままだったカーテンを勢いよく開けた。そのまま窓も大きく開く。朝の匂いがして、少し冷たい空気を感じる。
開け放した窓の外、空は火事のように赤かった。赤の中にオレンジや金色もある。見たことのない朝焼けだった。高村は息をのむ。

「カーテンの隙間から見えた光が赤かったので気になったんですが、想像以上でした」

さっき高村が食堂に入ってきた時以上に目を見開いて司書が呟く。赤い光が眩しい。黙って空を見つめていた高村はやっと口を開いた。

「これは画になるね」
「高村先生を祝ってくれてるみたいですね」
「……そうかな」
「そうですよ!こんな朝焼け、初めて見ました!きっと特別ですよ!」

きらきらと目を輝かせている司書を見ると、そうかもしれないと思えた。空はどんどん色を変えていく。窓を開けたばかりの時の赤はもうなくなってしまった。
2人並んで少しぬるくなったコーヒーを飲んでいると、司書はよかったと呟いた。高村が不思議そうにしていると、司書はマグカップを机に置く。

「少し元気がないように見えたので。でも、もう大丈夫そうですね」

まだ若い司書が無理をしていないか一方的に心配しているつもりでいたが、彼女は案外色んなことを見透かしているのかもしれない。気付いた上で気づかないふりをしてくれていたこともあったのかもしれない。

「あ、それとですね、結局プレゼントが決まらなかったんです。画材とかしか思いつかなかったんですけど、こだわりがあるかなと思って……何か欲しい物ありませんか?」
「朝焼けだけで充分だよ」

ええっと声を上げて司書は慌て出す。高村としては本心を言ったのだが、気を遣わせたと思ったのかもしれない。

「朝焼けは私が何かしたわけじゃないですし……」
「でも、君が気付かなかったら見られなかったよ。コーヒーももらったし、充分だと思うな」
「コーヒーだって、ただお湯を注いだだけじゃないですか!」
「わかった、じゃあ、君の誕生日を教えて」
「そんなんじゃプレゼントになりませんってば!もしかしてからかってます?高村先生って普段は優しいのに、たまに意地悪ですよね」

少し不機嫌になってきた司書を微笑ましく思いながら、高村は本当に充分なんだけどなと呟いた。

今日はいい日になりそうだ。

170318

pixivに投稿したものに加筆修正。3月13日は高村さんのお誕生日でしたね!おめでとうございます!


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