明日も道はあるのでしょうか


高村は図書館の雑務をしているというようなことを笑顔で答えた。頼んだ珈琲を飲んで、美味しいですね、ここにはよく来られるんですかなどと和やかに教授と話している。特務司書や転生のことを少し知っているようだったため、高村が転生した文豪だと見抜かれないか心配していたが、問題ないようだ。不意に教授は名前の方を見た。

「そうだ、さっき流されただけだと聞いて思い出したんだが、まだ道を外れていないのかい?」

そんなことを打ち明けたのはすっかり忘れていた。何故理学部に入ったのか訊かれた時に言ったのかもしれなかった。自分が進むべき道が1本あって、そこから外れずにずっと歩いてきた気がすると。自分が好きな文学の講義を取るくらいの反抗しかしたことがないと。その時、教授は若いなぁと笑ったのだ。

「ほら、高村光太郎の詩が好きだけど、私の前には道がある気がすると言っていただろう」

隣の高村が微かに反応したのがわかって、名前はそちらを見ることができなくなった。まさか教授がそこまで詳しく覚えているとは思わなかった。

「僕の講義を取ることは君にとって寄り道だったのかもしれないけれど、そこから脇道にそれて、違う道を歩き出したように思うよ」
「……違う道、ですか」
「君も気付かないうちに選び取っているはずだ。それに気付くのはもう少し年を取ってから……ただそれだけのことだ」

教授はにやりと笑った。そうなのだろうか、いつか自分の道を歩いて来たのだと気付く日が来るのだろうか。自分はただ少しアルケミストの素質があって、物事を多少器用にこなせるだけで、信念と呼べるものも持たず、流されて生きて来たように思うのに。

「本当に何も考えず流されて生きている人間に、あれほど熱心なレポートは書けないはずだ。君が最後に取った私の講義の課題は日本の詩をテーマに自由に論じなさいだったね」
「……はい」

次に教授が何を言うかは予想できたし、できることなら高村に知られたくなかったが、もうどうしようもなかった。

「日本の挽歌、高村光太郎を中心に……だったかな。あの時のレポートの最高評価は君だった」


「高村先生、今日聞いた話はどうか忘れてください」

長い沈黙の後、名前はそう言った。教授と別れてから、ずっと無言で歩いていた。

「うーん、僕は嬉しかったから、それはちょっと約束できないかな」

名前だって忘れてくださいと言って忘れてもらえるものでないことくらいわかっている。忘れようと思ったところで、自分の記憶なんて操れない。

「本当はそのレポートを読んでみたいくらいだよ」
「残ってませんし、残っていたとしても、高村先生にお見せできるような完成度じゃありませんから」

後世に名を残すほどの文学者なら、卒業論文でも素晴らしいものを書いた人もいただろうが、普通の大学生が課題として提出したレポートなんて文学者に見せられるものではない。

「先生と会う前に言いかけたことなんですが、私は多分……高村先生の詩への思いを聞きたかったんだと思います。高村先生の詩が好きなので」

文豪と深く関わるのは避けるつもりだった。どんなに注意していても、彼らは潜書で傷付く。その姿を見ても冷静でいるには、ある程度の距離を保つべきだと思っていた。それでも、高村は名前にとって好きな詩人だったから、話を聞いて見たかったのだ。

「本を読んでいるなら、他の皆にも感想を言ってあげればいいのに」
「私は文学を勉強してきていませんから」

的はずれな感想、幼稚な感想しか言えないだろうと思う。専門外のことには手を出さない方がいい。

「感想を聞きたがってる人は案外多いけど、的確な批評を求めているわけじゃないよ。少なくとも僕は、この作品が特に好きとか、ここの言葉の選び方がいいとか……それで十分嬉しいかな」

言われてみれば、的確な批評が欲しいなら、論文でも調べれば研究者達が書いたものがいくらでも出てくるはずだ。

「わかりました。図書館に戻ったら、宮沢先生と新美先生に感想をお伝えしようと思います」
「うん、賢治さん達、すごく喜ぶと思うな。でも、僕は?」
「……今日はもう無理です。レポートのことを知られたの、本当に恥ずかしいのに」

高村は可笑しそうに笑った。人の気も知らないで……とじとっとした目を向けると、さらに笑う。

「ごめんごめん、そういう顔もするんだなと思ったら嬉しくて」

顔をのぞきこまれて、熱が集まるのがはっきりわかった。今日の自分は少しおかしい。冷静になろうと言い聞かせながら、名前は早く帰りましょうと言って足を速めた。

もっと自由になってもいいのかもしれない。効率は悪いかもしれない、失敗もするかもしれない。でも、教授が言ったように自分はまだ若いのだ。試してみる価値はあるだろう。

『誰も通ってない道を、僕は通りたいんだ。遠回りでも僕の道だ』

ふと高村が独り言のように呟いた言葉を思い出す。遠回りでもいい。年を取った時に、自分の道を歩いてきたのだと胸を張れる自分でありたい。

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