願うような距離


佐藤だけ先に帰ってもらうわけにもいかず、廊下で少し待ってもらうことにして、名前は病室に入った。

「おばあちゃん、具合はどう?」
「名前ちゃん、お仕事あっただろうにごめんね」
「ううん、今日は午後からお休みもらってたから」

起き上がろうとするのをそのままでいいよと止めて、名前はベッドの横の椅子に腰掛けた。

「誰かと一緒に来たの?」

視線の先を見ると、ドアの磨りガラス越しに佐藤が見え隠れしていた。ごまかすのも怪しいかと思い、名前は頷く。入ってもらいなさいと促されて佐藤を呼びに行くしかなくなった。

「先生、友達だって紹介してもいいですか?祖母が入ってもらいなさいって」
「ああ、いいぜ」

佐藤が中に入ると、祖母は目を輝かせた。まあまあ、と嬉しそうに声を上げる。

「男の人だったの?もしかして、名前ちゃんの好い人?」
「いっ、好い人とかじゃなくて、友達だよ」
「あら、照れちゃって。もう恋人がいてもおかしくない年でしょう?優しくて頼りになりそうな人じゃない」

佐藤に迷惑だろうと再度否定しようとするが、必死になっても照れていると思われるだけな気がして名前は困った。悩んでいるうちに祖母は佐藤の方に話しかける。

「色々苦労してきた子だけど、良い子ですから、よろしくお願いしますね」
「はい。とても真面目で素敵なお嬢さんで、職場が同じなんですが、仕事もいつも一生懸命ですよ」

佐藤が否定すれば祖母も理解してくれると思ったのに、その佐藤は全く否定しようとしなかった。まるで本当に付き合っているかのようにさらりと答えた。真面目で素敵なお嬢さんと言われ、顔が真っ赤になる。佐藤はちらっと名前の方を見ると首を小さく横に振った。このままでいいという意味のようだった。

「よかったわねぇ……名前ちゃんがいつも真面目に頑張ってるのを、神様はちゃんと見ていてくださったんだよ。これで、ばあちゃんは安心して死ぬことができる」
「しっ、死ぬなんて言わないでよ、おばあちゃん!」
「はいはい、ごめんね。でも、ばあちゃんはもう充分生きたんだよ。名前ちゃんが立派に育ってくれて、もう心残りもないねぇ。ああ、でも、あの子に謝りたかった。あの子は名前ちゃんを心配して逝ったんだろうね」
「……お母さんだっておばあちゃんの気持ちはわかっていたと思うよ」


「……映画だけでなく、病院にまで付き合ってもらってすみません。それに誤解されちゃったし」
「俺が勝手にしたことなんだから、あんたが気に病む必要はないさ。むしろ、嫌じゃなかったか?」
「嫌というと……?」
「俺が恋人役で大丈夫だったか?」
「私には勿体無いくらいです!」

名前が慌ててそう言うと、佐藤はその返事はちょっとおかしい気もするけどなと言って笑った。

「祖母も喜んでくれましたし、少しでも安心させられたなら」
「他に親戚は?」
「祖父と母はもう亡くなりました。母の兄がいるそうですが、大学卒業後に海外に行ったきり、会っていないと聞きました」
「父親の方は?」

名前の表情が微かに強張ったが、それを誤魔化すように肩をすくめて首を横に振った。

「いません。勿論、本当にいなければ私は生まれていないのでいるんでしょうけど、顔も名前も知りません」

父親のことを尋ねられるのには慣れているはずだし、同情されるのも、眉をひそめられるのも慣れているはずだった。それでも、佐藤がどんな反応をするのか不安だった。

「物心ついた時にはいなかったから、それが当たり前だし、1人で産んで育ててくれた母には感謝しています」

言い訳のように早口でそう付け加えると、佐藤は苦笑してわかってると言った。

「皆、色々あるさ」

ひどく優しい声だった。励ますでも慰めるでもなく、突き放すわけでもない、ただ受け入れてもらえたような気がした。
祖母が無事で安心したのもあったのだろうが、目頭が熱くなって涙がこぼれた。バスの中で乗客の視線から名前を庇うようにしながら、佐藤は何も言わずに頭を撫でた。

「なんか……今日は本当にごめんなさい」

バスを降りて駅で電車を待つ頃には名前も泣き止んでいた。しかし、恥ずかしいやら情けないやら申し訳ないやらで、佐藤の顔がまともに見られなかった。

「ま、たまにはいいんじゃないか」

何でもないことのように言って、佐藤はポンと名前の頭を叩いた。ああ、この人はどうしようもなく大人なのだと思った。外見以上に精神的には自分よりずっと大人なのだ。だから、全部打ち明けて、受け入れて欲しいと思ってしまうのだろう。


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