苦しみを飲み込んで

「このまんま死んで行ったら、さぞ好い気持ちだろうな。」彼はふとそんな事を考えた。「しかし、お前はもっと生きなければならんぞ」と彼は半ば自分をいたわるように独り言ちた。「どうして生きなければならないんだ、こんなに孤独で?こんなに空しくって?」何者かの声が彼に問うた。「それがおれの運命だとしたらしようがない」と彼は殆ど無心に答えた。
(堀辰雄「菜穂子」)


「なーんも楽しくない……」

白い天井を見つめてぽつりと呟く。自己嫌悪は止まりそうもない。死にたいな、どんな死に方がいいだろう、そんなことばかり頭に浮かぶ。一時的なもので休めば治るのだと司書に諭されても、時間が来ればけろっと治るのを実際に体験しても、今は死ぬことしか考えられないのだから仕方がない。
一度首を吊ろうとしたのを司書に見つかり、それ以来、太宰が補修室で休んでいる間は誰かしらが見張ることになった。基本的には司書がずっといるのだが、用事がある時は他の文豪を呼んでくる。
自分で肉体を痛めつけたところで、それほど影響はないらしいが、何かあってからでは遅いからというのが司書の意見だ。そうでなくとも、目の前で首を吊られて、気分が良いわけもない。
あれだって、別に本気ではなかった。やってみたら、少しは気持ちも落ち着くかなとかそんなものだった。気持ちがどこまでもどこまでも沈んでいきそうだったから、何かしら行動を起こしたかった。それだけだ。

「俺はどうせ駄目な奴だよ。死ぬしかない、もう死のう……」

吐き出せば少しは楽になる気がして、ぶつぶつと繰り返す。ああ、独りで死ぬのは嫌だ。でも、死にたい。誰か一緒に死んでくれないだろうか。思考は同じところを回るばかりだ。

「えっと、大丈夫ですか?」

困ったような声。カーテンの向こうには人の気配がする。いつの間にか誰かが来ていたらしい。司書が出て行ったのは気付いたが、誰かが入って来たのには気付かなかった。
普段なら司書が呼んでくるのは織田だ。が、明らかにさっきの声は織田ではないし、太宰が親しくしてる人物でもないだろう。

「あの、開けますよ?」

太宰が黙っていたからか、その声と共にゆっくりとカーテンが開く。
ぱちりと目が合う。太宰は澄んだ青い瞳から目をそらした。知らないわけでも、気まずいわけでもない。ただ、自分とは全く違うタイプの人間だと思っている人物だった。
堀辰雄。その名前は生前も知っていたし、一度会ったこともある。いい男前だけど、隙間だらけの歯が残念。確かそんな感想を持った。
転生した堀は、彼の代表作のイメージを形にしたような繊細そうな美少年の姿をしていた。
生き方や考え方もそうだし、作品も全く違う。対照的だからか、引き合いに出されることもあった。太宰にとって、堀はそういう存在だ。

「司書さんに頼まれて……。僕以外に手が空いている人がいなかったみたいで」

太宰が目をそらしたからか、堀は申し訳なさそうに目を伏せて言った。悪いことなどしていないだろうに。

「俺は大丈夫なんで、出てっていいですよ」

素っ気なく言えば、堀は困った顔を見せた。司書に頼まれた以上、役割を放棄することなんてできないのだろう。
多分、何を言っても出ていかないだろうなと太宰は思った。外見と違って、強いとか頑固だとかいうのが堀と親しい人の評価だ。簡単には折れないはずだ。
堀はカーテンを閉めようとした。そっとしておくべきだと判断したのかもしれない。

「……死にたいと思ったことない?」

思わず出た太宰の言葉に堀の動きが止まる。堀は閉めかけたカーテンを元に戻し、太宰を見た。

「今じゃなくて、昔。結核だったなら、苦しかっただろ?」
「こんなに苦しむくらいなら……と思った時は、ありました」

怒るでも悲しむでもなく、堀は静かにそう答えた。真っ直ぐに太宰を見つめていた。その目は太宰が目をそらすのを許さなかった。どこか怖いくらいの強靭さを見せつけられたようで、太宰は息をのんだ。

「僕は自分の考えていることを形にしたかったし、それはまだ果たせていなかった。それを果たすまでは死にたくなかったし……病気でも、なるべく長生きしたいと思っていました」

誰かが太宰は自分の人生を破壊するような生き方をして、堀は自分自身を大切にする生き方をしたと評価したらしい。どちらが強いのだろう。

「それに、病気にならなかったら、書けなかったものもあっただろうし、慣れてしまえば、悪いばかりでもないんです」

堀はふと、昔「僕から結核菌を追い払ったら、何が残るんだい」というようなことを口にしたのを思い出した。周囲からすれば笑えない冗談だったかもしれない。ただ、堀にとって病は憎いだけの相手というわけでもなかった。自分が置かれた環境に満足し、そこに喜びを見出してきた。
太宰が何も言えずにいると、堀は少し表情を柔らかくした。

「太宰さんは優しいんですよ。優しさとかナイーヴさとか、そういうものをなくさないためには、強さが必要なんだと思います」
「それ、堀さん自身のことじゃないんですか」
「それは……どうだろう」

堀はごまかすように笑ったが、太宰にはそうとしか思えなかった。自分の優しさを守るために、強靭な精神を身につけた人。
優しさとかナイーヴさとかを捨てるか、守るために強くなるか……太宰はどちらも選びきれなかったのかもしれない。その結果が悲劇的な最期だったのだろうか。その最期が太宰に心酔するファンを増やしたことを、太宰は転生して知った。

「堀さんと俺は違いますよ。俺は強くなれない」

堀は肯定も否定もしなかった。ただ困ったように笑った。どうすればいいのかわからないのだ。励ますべきなのか、慰めるべきなのか、それが判断できるほど堀は太宰のことを知らない。
そもそも死にたいと思ったことはないかという質問に答えてしまったこと自体間違っていたような気もする。耗弱や喪失の時は普通の状態ではないのだから。

「僕は太宰さんのことをあまり知らないから、何も言えないんですけど……何か楽しいことを考えたらどうですか?例えば、そうだ!治ったら、芥川さんも誘ってお茶を飲みましょうか」
「芥川先生と……?」

どうにか思いついた精一杯の提案。太宰が芥川に非常に強い憧れを抱いているのは、図書館の誰もが知っている。

「芥川先生とお茶!?」

思った以上に大きな反応が返ってきて、堀はこくこくと頷いた。嬉しそうに目を輝かせた太宰は、普段通りの明るさを取り戻しているように見えた。驚いて時計を確認してみると、補修が完了したようだった。もう大丈夫だと堀は胸をなでおろす。

「ほら、もう治っただろ。芥川先生とお茶、約束だからな」
「はい、約束です。芥川さんに声をかけてみますね。あ、でも、僕がいない方がよければ……」
「無理!芥川先生と2人きりなんて絶対無理、話せる気がしない!」

そういうものなのかな、それにしても元気だなぁと思いながら堀はわかりましたと頷く。
起き上がって身なりを整え始めた太宰を見ながら、太宰のように全力でぶつかっていけるのはすごいなと思った。芥川を全力で尊敬し、志賀に全力で突っかかる。自分にはできそうにない。
長い間身体を気にして、無理しないようにしていたからか、がむしゃらに何かをするということを忘れてしまった気がする。転生してある程度身体が丈夫になった今でもそれは変わらない。
だから、少し太宰が羨ましい。でも、それはないものねだりなのだろう。堀は太宰のようには生きられないし、太宰も堀のようには生きられないのだ。

「堀さん」

堀が考え事をしているうちに、太宰はいつもと変わらない様子で立っていた。

「迷惑かけてすみません」
「大丈夫ですよ、気にしないでください」

でも、違うから親しくなれないとは思わない。案外、付き合いが長く続く友達は自分とは違う考えを持っているものだ。

「せっかくだし、このまま芥川さんのところに行きましょうか?」
「ええっ!?」

太宰と一緒に芥川のところに行ったら、どんな反応をするだろうか。珍しい組み合わせだと驚かれるかもしれない。
堀は思わず微笑んだ。太宰と今までよりずっと親しくなれそうな、そんな気がした。

pixivにあげたもの。生前は1度面識があった2人。性格は全然違うけど、案外仲良くできる気がします。冒頭の菜穂子は青空文庫より引用させていただいています。


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