水底の楽園


『大丈夫、俺がいるから。俺は汐音の味方だから』

笑っていた。最後に会った時もいつも通り笑っていた。海で亡くなったのだと聞かされた。溺れた人を助けようとしたらしい。最期まで優しい人だったのだと思った。
元気だったのに、本当に簡単に死んでしまった。彼といる時間はあたたかくて心地よくて、大好きだったのに、もうあの日々は戻って来ない。

聞かされただけで、その様子を見たことはないのに、夢には何度も見た。何かを叫びながら海に飛び込む彼、行かないでと叫んで手を伸ばす自分。でも、彼は振り向くこともなく海に消えていくのだ。

ざぶざぶと音がする。海の中に入っていく音。海に沈めば、自分も彼と同じ場所に行けるだろうか。いや、人助けのために海に飛び込むのと、自分から沈むのは違う。会えはしないだろう。

◯ ● ◯ ● ◯


ざぶざぶと音がして薄っすら目を開けると、見慣れた部屋の風景が広がっていた。まだ眠い頭にざぶざぶと音が響く。汚れたはずのシーツは綺麗になっていた。予備のシーツに替えて、今洗ってくれているのかもしれない。自分が何をしたのか、未だによくわかっていなかった。ただぼんやりとしていたし、流されたのかと言われればそうかもしれない。

「あ、起きた?」
「ん……」

手を拭きながら部屋に戻って来た太宰はしゃがんで汐音の顔をのぞきこんだ。

「死ねなかったな。最近の睡眠薬は安全らしいし、あのくらいじゃ無理か」

そうだった。1箱の睡眠薬を2人で分け合って飲んだ。このまま目が覚めなければ、それはそれでいいかもなと太宰は笑ったのだ。

「嫌じゃなかった?」
「うん。境目がわからなくなって、ふわふわしてた。全部が遠くなって……海に沈んでいく気がした」
「汐音は全部海だな」
「あと、誰かが処女のまま死ぬのは可哀想って言ってたから、よかった」
「なんだよ、その感想」

まあいいけどさと言いながら、太宰はするりと布団に入る。触れた温度が心地よくて、汐音は目を細める。人の体温を近くに感じたのはいつぶりだろうと考える。

「体、平気?」
「ん……多分」

心は凪いでいた。今まで開いていた穴が一時的にでも塞がったような、不思議な感覚だった。
太宰との関係が健全なものでないことは汐音も理解していた。愛でも恋でもない。一緒に死のうというぼんやりした約束で結ばれた、不健全で危うく、普通の人なら眉をひそめるような関係。

「太宰君、首絞めて」

今死んでしまえたら、案外幸せかもしれない。そう思った。太宰は躊躇っていたが、ゆっくりと手を伸ばした。両手で首を掴む。力が入ったのがわかった。苦しくなる。呼吸ができない。それでも抵抗する気にはならなかった。真っ直ぐに太宰を見つめていた。

「苦しいし、これじゃ一緒に死ねないだろ」

ふっと力が緩んだ。反射的に咳き込む。

「え、悪い、やりすぎたか?」

汐音があまりに激しく咳き込むから、太宰は不安になってその背に手を伸ばす。さすってやれば少しは楽になると思ったが、汐音は拒むように身をよじった。
苦しかった。苦しいということは生きているのだと思った。

「生きてるね、私達」
「そうだな。生きるのは苦しい。でも、死ぬのも苦しいよ。結局苦しいんだよ」

汐音が静かに目を閉じる。疲れたのかすぐに眠ってしまった。太宰は自分の手のひらを見た。抵抗すると思っていた。どんなに覚悟を決めていたって、全部を諦めていたって、命の危険を感じれば、結局は生きようとするんじゃないかと思っていた。
汐音は抵抗しなかった。ただ真っ直ぐに太宰を見ていた。怖いくらいに真っ直ぐに。一緒に死のうと太宰が本気で言ったら、多分汐音は躊躇わないだろうと思った。

170817
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