おだやかな夜は傷口を舐めるだけ
外に出ると雨が降っていた。半ば無理やり居酒屋に連れて行かれて飲まされた太宰は、やっと逃げ出して図書館に帰る途中だった。ある程度酔っていたが、雨で濡れると酔いは急速に覚めた。
そういえば汐音と初めて会った日にも雨が降ったなと思い出したところで、橋の上で立ち止まる影を見つけた。
「汐音?」
「あれ、太宰君」
川を見つめていた汐音の手には小さな箱があった。睡眠薬だと太宰にはすぐわかった。
「それ」
「ああ、うん。睡眠薬で自殺ってよく聞くから。でも、こんな簡単に手に入るものじゃ死ねないんだろうなぁと思って」
それはそうだろうと太宰は思った。太宰の生きた時代ならまだしも、今は安全性を配慮した薬がほとんどで、大量に摂取したところで死ぬまではいかないらしい。
「雨、やみそうにないね」
ぽつりと汐音が呟いた。
汐音にはそんな気はなかったのだろうし、太宰もまた家に来るかと問われた時は、寂しそうだから行こうかなくらいの気分だった。こんな夜中に男を部屋に入れる意味がわからないほど汐音は子供ではないだろうとわかっていたことは否定しないが。
部屋には前来た時とは違って布団が敷かれていた。それに酔いが覚めた気がしていても、太宰は酔っていた。汐音の服は濡れて、肌が透けていた。雰囲気とか勢いとか、そういうものだったのかもしれない。気まぐれだったかもしれない。少しでも拒まれればやめる気でいた。
「してもいい?」
布団に押し倒して短く聞くと、汐音はきょとんとした顔で太宰を見つめた。まさかわかってないのだろうかと力を緩めるが、汐音は小さく笑った。
「初めてだけど、それでいいなら」
恥ずかしがるそぶりは見せても、拒む様子はなかった。それほど力を入れていないから、逃げようとすれば逃げられるはずだった。
◯ ● ◯ ● ◯
太宰は布団の近くに落ちていた睡眠薬の箱を拾った。ぼんやりと何もないところを見つめている汐音の前でそれを軽く振ってみせる。
「飲む?」
汐音が微かに頷いたから、太宰は台所に行って適当なコップを出して水を注いだ。コップを持って部屋に戻り、横になったままの汐音の前で箱を開けて逆さにする。説明書とアルミのシート2枚が落ちた。説明書には目もくれず、太宰はシートから薬を取り出していく。汐音は白い錠剤が太宰の手のひらに落ちるのを見ていた。
「ん」
1枚目のシートを空にすると、太宰は手にあった錠剤を汐音に差し出した。10錠の薬。汐音が受け取ると残りのシートから薬を出し、慣れた様子でそれを口に放り込むと水で流し込んだ。やっと体を起こした汐音は太宰からコップを渡されると、躊躇いなく薬を飲んだ。
「このまま目が覚めなければ、それはそれでいいかもな」
このくらいの量では死ねないだろうとわかってはいたが、太宰は穏やかな顔で笑った。汐音もそうだねと笑った。
◯ ● ◯ ● ◯
太宰は目を開けた。目の前には汐音の顔があった。死んだように眠っている。不安になって呼吸を確認したが、眠っているだけらしかった。軽く太宰の腕を掴んでいる手をそっと外し、脱いだ服を身に付けて布団から抜け出す。
カーテンを少し開け、月明かりを頼りに箪笥の方に向かう。いくつか引き出しを開けて、シーツを見つけた。掛け布団を汐音の体に巻きつけるようにして、畳の上に転がす。汚れたシーツを新しいものに替えて、とりあえず服を着せて、汐音を元の場所に寝かせた。
「行かないで!」
シーツを抱えて立ち上がったところで、不意に汐音が叫んでびくりとする。夢を見ているらしかった。魘されているから、揺すって起こそうとしたが、眠りが深いのか起きる様子はなかった。睡眠薬の効果だろう。
汐音はしばらく魘されていたが、やがてまた静かに寝息を立て始めた。
ざぶざぶとシーツを洗う。冷たい水に手を突っ込むと少し冷静になれる気がした。太宰は酔っていたが、汐音は酔っていなかった。その汐音が拒まなかったのだから、無理やりしたわけではない。
ただ、汐音は太宰が普通の人間でないことを知らないのだ。今のところ、異常はないが、大丈夫だろうかと不安になる。まさか、司書に普通の人とそういう行為をしても大丈夫かなんて聞けるはずもない。
背中が微かに痛んだ。そういえば爪を立てられたのだったと思い出す。汐音は縋るように強くしがみついてきた。その時、背中に爪が食い込む感覚があった。怖い?と聞いても、汐音は子供のように怖くないと繰り返すだけだった。でも多分、怖いし、不安だし、寂しいのだ。だから受け入れた。それだけだ。
170817