誰の背にも翼はない


ふう、と煙を吐き出す。甘い甘い煙は風に乗って消えて行く。

「煙草吸うんだな、意外」
「……太宰君」
「海の前通ったら、いたからさ」

汐音は煙草が好きなわけではなかった。ただ、店で見覚えのあるパッケージを見かけて、手に取ったのがきっかけだった。

「懐かしくて。パッケージも香りも。煙草のにおいは苦手な方だけど、これは甘いから好き」

もう一度、ゆっくり煙を吐き出す。あの人はよくこの香りを纏っていた。甘い匂いがすると近付くと、大人になったら教えてやるからと笑っていた。たまに汐音の前でも煙草を吸った。

「チョコレート?」
「うん。いる?太宰君は煙草吸う人?」
「まあ吸うけど、それは甘すぎるからいいや」

太宰は海に目を移す。ちょうどこのあたりだったかもしれない。ざぶざぶと海に入っていく汐音を見たのは。思えば彼女にはあの時も躊躇いはなかった気がする。
横を見ると、汐音はいつの間にか煙草を吸うのをやめていた。

「結婚の日、決まったんだ」
「え……」
「あと2週間。それまでに死ねなかったらもう諦める。生きるのは苦しいけど、死ぬのも苦しいんだから、仕方ないね」

前に太宰が言ったことを繰り返して、汐音は苦笑した。

「煙草もさ、好きだった奴が吸ってたの?」

太宰が聞くと、汐音は目をぱちくりさせた。思い返すと、好きだった人がいるということさえ、本人から直接聞いたわけではなかった。ただ、太宰がそうなのだろうと推測しただけだ。

「私、そういう話したっけ?」
「いや、ほぼしてない。大切な奴が死んで、それが海と関係あるんだろうなとは思ってるけど」

今まで話してきた内容を思えば間違っていないだろうと太宰は思う。

「好きだったかもよくわからないんだよね。憧れみたいなものだった。年も10以上離れてたから、少なくともあっちは妹みたいに思ってただけだろうし。最初で最後の恋だったなら、それはそれでいいかもしれない。私はあの人に救われてたから」

もし、あの時、彼が死んでいなかったとしても、自分がその後に恋心を自覚したとしても、結局恋が叶うことはなかったような気がする。

「海に入って死のうとしたのも、あの人が海で亡くなったから。溺れた人を助けようとしたんだって。そんなことしても、同じ場所に行けるはずないのにね。人助けと自殺じゃあ、全然違う」

汐音は今まで話さなかったことをよく喋った。もう太宰と会うつもりはそれほどないのかもしれない。死ぬことを諦めて生きるのなら、一緒に死のうかと約束した太宰との繋がりは意味を持たなくなる。
太宰はそれでいいのだろうと思った。太宰自身は転生してから、なんで死んだんだ、もっと生きていて欲しかったと責められたこともあった。周りの人は悲しむし、苦しむのだ。汐音の周囲にどんな人がいるのか知らないが、悲しむ人はいるはずだ。それなら、生き続けた方がきっといい。

「多分、生きた方がいいんだよ」

ぽつりと太宰は呟いた。自分が言えることじゃないかもしれない。周りが苦しむのを知った上で、それでも死にたいという気持ちを抑えられなくなる時がある自分が他人にそんなことを言う権利はないだろう。

「わかってるよ。健全な人は、死にたいって考えることはあるかもしれないけど、ここまで本気で死のうなんて思わない。みんな、ちゃんと諦めないで生きてる。そっちの方が正しいんだよね、きっと」

太宰も汐音も正しくないのだ、きっと。

「でも、太宰君と会えてよかった。楽しかったよ」

健全な関係ではなかったけど、愛でも恋でもなかったけど、短い間でも太宰と繋がっていられたのは幸福なことのように思えた。

「さようなら」

ふわりとスカートが揺れた。そのまま汐音は走り去った。太宰は何も言わなかったし、汐音は振り向かなかった。

170821
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