溺死では終われない


ぐいと腕を引かれた。強い力で引っ張られる。薄れかけていた意識も一緒に引き戻された気がした。流されていたのとは違う方向に引っ張られる。

「馬鹿か、アンタは!一緒に死ぬ女なんてどこで見つけたんだよ!?」

岸に引き上げられた。途端に吐き気がこみ上げてきて、飲み込んだ水をそのまま吐き出した。激しくむせる。死ねなかったらしい。

「太宰クン、この人……」
「……っ!汐音は!」

手は握ったままだった。

「おい、汐音!」

目は閉じたまま、動かなかった。嘘だろと思う。この展開を思い描かなかったわけではなかった。自分の体が川に飛び込んで死ねる体だという確信はなかったのだ。あの時も今回も、太宰が普通の人間でないことを汐音は知らなかった。
違う。本当に一緒に死のうと思ったのだ。汐音だけが死ぬことなんて望んでいなかった。
痛い、苦しい、ああ、生きている。水は吐き出したが、頭の働きはまだ鈍いままだった。ずっと強く握りしめていたせいで、痕のついてしまった手を太宰は途方に暮れたように見つめていた。

◯ ● ◯ ● ◯


「行かないで!」

太宰はびくりとして目を開けた。目の前には白い天井が広がっていた。気持ちは落ち着いていた。途中だった補修も終わっているらしい。慌てて体を起こして白いカーテンを開ける。声は隣のベッドからしていた。

「行かないで、置いていかないで!」

太宰はその場に座り込みそうになった。魘されてひどく苦しそうな顔をしているが、汐音は生きていた。きちんと呼吸をしていた。ずきりと右手が痛む。目をやれば、爪が食い込んだような痕が残っていた。

「行くわけないだろ」

汐音が求めているのは自分ではないとわかっていたが、そう答えた。

「太宰先生、起きているんですか」

司書の声がして、太宰はまたびくりとした。声だけでもわかるくらいに怒っている。当たり前だ、一般人を巻き込んで川に飛び込んだのだから。

「すいません、ほんとにごめんなさい」
「何をなさったかわかってますか?太宰先生だけでも大問題なのに、見知らぬ女性まで運び込まれた時には心臓が止まるかと思いました」

一般人との接触はなるべく避けるようにと注意は受けていた。悪いのは太宰だ。謝るしかない。

「まあ、太宰先生の外出を許可したこちらの判断ミスもあります。もっと慎重になるべきでした」

司書はふうと息を吐き出した。予想よりは怒っていなかったことに安堵しながらも、太宰は真面目な顔で司書の話を聞く。

「それと、彼女のご家族に電話させてもらいましたが、彼女自身にも死を選ぶ理由があったことは何となくわかりました。正直、ご家族の反応に腹が立ったので、後のことはこちらで引き受けると言って電話を切ってしまいました」
「……へ?」
「ちょうど事務職員が1人辞めたところだったので、図書館で働いてもらいます。もちろん、彼女の了承が得られればの話ですが」

全く想像していなかった展開に太宰はついていけなかった。汐音が図書館で働くなんて、信じられない。

「なんですか?」
「いやー、さすが司書さんだなぁと思って」
「ただし、また同じような問題を起こせば、次はありませんから」

キッと睨まれて太宰は俯く。この人の下で働くことになる汐音は大変かもしれない。でも、手伝えることは手伝おうと思った。

汐音はいつの間にか静かに眠っていたが、目を覚ます様子はなかった。気になって太宰がそちらを見ていると、司書はそれに気付いたのか口を開いた。

「一度意識を取り戻してはいますし、その時は記憶もはっきりしていて、受け答えも問題ありませんでした。太宰先生を心配していましたよ」
「大丈夫……なんだよな」
「はい、体の方は問題ないと森先生もおっしゃってますから。何かあれば森先生を呼んでください。……一応言っておきますが、もう変な気は起こさないでくださいよ」

さすがにそんな気にはならないと言いたかったが、ここは素直に頷いた。言うことは全て言ったのか、司書は部屋を出て行った。
太宰は汐音のベッドの近くに椅子を運んで腰掛けた。死ねなかったなと言いかけて、その言葉をのみこんだ。

「ここで働くのも大変だろうけど、知らない奴と結婚するよりはいいよな、うん」

これからは一緒に苦しんで、一緒に生きるのだと思った。多分、みんなそうやって生きていくのだと。

170823
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