それから一月ほど経った。


 真島くんはどうやら忠犬に順調に成長しているらしい。
 私は仕事がなくのんびり生活していたし、逆に嶋野は忙しく会わないことが増えていた。といっても、仕事はあまり頻繁に行うと身元がバレてしまいうまく行かなくなってしまうから、一月くらい空くのはいつものことだった。


 しかしその週末、久しぶりに仕事ができた。


 ――朝から味玉を仕込んでいた。
 ゆで卵を作ってはジップロックに入れ、作っておいた合わせ調味料と一緒に冷やしていた。

 仕事はいつものホテル街だが、使ったことのないホテルを指定された。毎回隣の部屋には嶋野組の若衆が先に入ってくれる。

 この仕事は、とにかく気合いを入れてはいけない。殺気は仕事の邪魔になる。お前を喰ってやる!という強い色気も、相手を怖気づかせることがあって面倒くさい。かと言って、一辺倒にアホを演じても、己に自信を持っている男性は興味を失くしてしまう。街でたまたま会った一番抱きたい女になり、絶頂で息の根を止めてやらねばならない。そのためには相手が何を望んでいるのか、察知し叶えてやる必要がある。



 私は嶋野と出会う前からこの仕事をしていた。


 私が初めて人を殺したのは、両親を殺された返しのためだった。

 父母を殺したのは、ただの通りすがりの男だった。因縁も怨恨もそこには無かった。「誰でもよかった」というやつだ。当時高校を卒業したばかりの私は犯人を一人で探し出し、殺し、たまたまその話を聞きつけた雇用主に出会い、そこから依頼を受け生計を立てて生きてきた。私のやってきたことはただ犯罪でしかない。……私は雇い主から金を貰い仕事をしていたが、別に恩義を感じていた訳ではなかった。



 そんなとある日、受けた仕事のマトが嶋野だった。

 私が仕事をしてきた中で、唯一殺せなかったのが嶋野という男だ。

 あの時、己の命を狙い、仕留め損ねた私を嶋野が丸ごと奪ってくれなければ、今頃私は海に沈んでいただろう。







 今回のターゲットは、短髪で白髪交じりの男性だった。声をかけ食事をし、ホテルへ向かう。周到に、つつがなく計画は進んでいった。


 しかし。
 気がつくと、私は見知らぬホテルのベッドで寝かされていた。

 服は着たままである。
 でも、身体をしっかりと、縄で固定されていた。


 これは。

 素早く視線を部屋に巡らせるが、人の気配はどこにも無かった。


 伊織は何も無鉄砲に殺し屋をしているわけではない。彼女には天性の危機突破能力が備わっていた。でなければこんなに危険な仕事をずっと続けられるのは難しいだろう。

 隣の部屋にも、誰もいない。
 臭いや様相から、ラブホテルで間違いなさそうだ。ぐっすり寝込んだ感覚はなく、おそらく予定していた現場からもそう遠くない。

 身体を少し揺らしてみるが、手足を後ろで折り合わせた状態で縛られており、物を手に取ることは困難そうだ。マトを仕留める用のナイフも荷物ごと見当たらない。




 ハメられたか。

 お酒の場で何かを盛られたのだろう。
 部屋といい縄といい用意が周到すぎる。
 恐らく今回のターゲットの男か若しくはその上の奴に誘き出され、私が狙われている。或いは、狙われているのは――


 嶋野だけには、迷惑をかけられない。




 その時、ヒュン、と極々小さな音が聞こえ、すぐに大きな音を立てて部屋の窓ガラスが割れた。

 どちらだ。

 敵か味方か。

 時間にして1秒。
 伊織は周りの空気に全神経を集中させると、縛られている手でそのまま足首を掴み、反動をつけゴロンと大きく横に転がった。ぐるっと一回転した身体はベッドから叩きつけられるように落ちる。
 少々痛いが、背中から落ちると関節を外しかねないので腹から落ちた。床に打ち付けた顎と胸が焼けるような痛みを訴えた。

「ぐっ……クソ」


 軽く脳震盪を起こしつつ、自らを奮い立たせ割れたガラス片の方へ向かう。距離にして2mほど。遠くはないがこの態勢で向かうのには時間がかかる。ほぼ芋虫のような見た目だったが、肩で身体を引き摺るように前へ進んでいく。
 一歩一歩進むごとに胸が潰され、サラシを巻いとくんだったか、と思ったが、それじゃあ色仕掛かけをする前に極道の女だってバレるじゃないか……等と頭の隅で考えつつ、部屋の外の様子を伺って進んだ。

 ガラス片の目の前まで来た。

 しかし、ここからガラス片を更に割って進み、再び仰向けに転がり、ガラス片を手に持つところまでしなければならない。



 ふと、殺し屋の仕事を辞めろとしつこかった嶋野を思い出した。

 傷だらけにして。
 また怒られんのやろな。



 ふ、と軽く息を吐き、細かく散ったガラス片の水たまりへ胸から突っ込んだ。

 支えにしている肩や胸の布に穴を開け、容赦なく細かく大量に傷をつけていく。
 己の体重を支えるたびにガラスが刺さるが、こうしないと、前に進まない。

 ガラスが割れた以降は、伊織の小さな叫びに似た呻き声と、シャリ、シャリ、とその身体を削ぎ落とす音のみが続いていた。

 やっと大きなガラス片群を横に据えた頃には、伊織の身体は脂汗でぐっしょりと濡れていた。
 もう一度気合いを入れ直し、反動をつけ、仰向けに勢い良く転がる。

 ガシャ、と音がして、いくつかのガラスが割れた。
 今度は身体を捩り、指先でガラスを掴む。
 見えぬガラス片を掴むのだ。指の痛みや血で滑って、自らの手を留める紐が切れた頃には、右手の人差指には感覚がなくなっていた。


 それでも右手の人差指、中指、左手の人差し指、中指と壊しながら、鋸のように紐を削っていった。

 やっと手脚が4つに分裂したところで、ガラスと血の海で伊織は立ち上がろうと膝をついた。
 もう痛みはよくわからなくなっている。手を開くとラメをかけたようにキラキラ反射していた。血塗れでなければ化粧か何かだと思う人もいたかもしれない。


 その時、部屋の外でよく知っている怒号が聞こえた。