仙台駅前。人の波と昼の暑さに、バスターミナルの上は蒸されたような空気になっていた。あちらこちらで涼みを求めてカフェへ避難する人がいる。
 龍司も人の波に流され、仙台駅の中へ入る。そのまま真正面に、「七夕のボンボン」はいくつも上から垂れ下がっていた。
 仙台駅正面口の天井は8メートルも有ろうかというほど高く突き抜けているが、七夕飾りは6.5メートルほどであろうか。下で待っとけ、とは言ったが、実際龍司はこの下を通れない。ボンボンはよくみると足の長い蛸のようで、簾のようにのびた飾りは近づくと龍司の胸上まで到達するのだ。
 桐生も本当にこの下で待つことにはならないだろう。すこしだけ離れた柱から、色とりどりの「蛸」を見守る。……少々早く着いてしまった。


 13時を過ぎた頃。「彼」は現れた。

 桐生一馬が、そこにいた。


 桐生は白いワイシャツの袖を暑そうにたくし上げ、やけに青いジーンズを履き、重たそうな眼鏡をかけ黒い帽子を被っていた。見たことのない組み合わせに龍司は多少混乱したが、知っている人が見れば桐生だとわかる見た目であった。桐生は人混みの中で落ち着きなく自分を探していた。


「桐生はん」


 近づいて声をかけると、彼は動きをピタリと止めた。


「龍司」


 振り向いた彼が、たしかに自分を見てそう言った。

 カラン、と瓶の底に錠剤が飲んだ時のままの形で落ちる。

 最初に会ったときから――本当はもっと前に逢っていたのだが――10年が経とうとしている。
 10年。キャバレーで会ったのがついこの前のようだ。しかし、決して短くはない10年だった。

 暑さと緊張でぬるついていた手を、ズボンでぬぐって桐生へ向かって上げた。
 どこから話したらいいか。
 龍司の口はすっかり乾ききってしまっていた。







 そこからほど近いカフェに入ろうとした龍司に、桐生はもう少し歩かないか、と提案した。
 少々暑いが、駅から離れ人の少ない通りまで進む。てっきり話がしたいという意味だと思ったのに、桐生は特に何も話してはくれないようだった。深めにかぶった黒いキャップが太陽光を吸収して暑そうだ。
 結局二人が入ったカフェは、お昼すぎだというのに4組も客が入っていなかった。

 桐生も龍司も腹が減っていた。示し合わせるでもなくサンドイッチを頼んでいる。


「桐生はん」


 無言でサンドイッチを食べるわけにもいかず、痺れを切らした龍司が話を切り出した。


「わしゃあんたが死んだと聞いとりましたわ。一体どないなっとんのや」

「……ああ。ちょっと、身を隠さなきゃいけないことが起きてな。……死んだことにしてもらった」

「死んだことにしてもらったて……。戸籍は」

「ない」

「ない? ……そら、ほんまに無いっちゅうことか」

「ああ」


 一人の人間の戸籍を無くすことなんて、そう簡単にできることではない。もし完全に無くなっているとしたら、桐生はこうもあっけらかんと話しているが、大きな裏が動いているに違いなかった。


「ほう……。で、あんたはこの数ヶ月何しとったんや」

「タクシードライバーやトラックのドライバーをしていた」

「はあ? またかいな。それ前にもやっとらんかったか?」

「まあ……身分証がガチガチに必要なところは無理だからな」

 バクバク。龍司もそうだが、桐生はより食べるのが早い。一つのことを長く続けるのが不得意なのかもしれない。


「ほんで? 今回はなんで急に連絡くれたんや」

 龍司の問いかけに、サンドイッチを食べ終えた桐生がズズ、とコーヒーを飲んだ。
 ややあって、口を開く。

「なんとなくだ」

 桐生はニ、と口の端を上げてみせたが、そんな顔を見たことのない龍司には、裏が有るから聞かないでくれと言っているようにしか見えなかった。

「使えなくなった携帯にお前の電話番号が入っていたから、久しぶりに会おうと思ってかけただけだ」


 公衆電話、使えなくなった携帯、なくなった戸籍。身分証も無く人混みを避け、バレバレだが変装をしている。……龍司はなるほどな、と合点した。

(こいつ、遥にも会えてへんとちゃうか)


 柄になくヘラヘラと笑い出した桐生は、死んだことにしてから誰と話したのだろうか。


「ほぉん。そんなら、仙台にはいつまでおるつもりやねん」

「……」


 桐生の動きが一瞬止まった。こちらを見るでもなくコーヒーを見つめたままぱちぱちと二、三度瞬きを繰り返し、「明日には発つ」と言った。


「10年経っとったら嘘もちぃとは上手くなるもんやな」


 龍司の口から出た言葉に、桐生は今度こそ固まった。


「ま、ええわ。あんた、今日はうちに泊まっていけや。どうせホテルもなんもとってへんのやろ」

「……」

「それが一番ええやろ? 偽の身分証出すんも毎回大変やろうしなあ」


 半ば脅しだった。

 何を思ったのか桐生は暫く黙っていたが、「ああ」と短く返した。
 一度知ってしまったと思っていた男は、相変わらず食えない男だった。