龍司の家へ入った桐生は、最初は借りた猫のように大人しくしていたが、次第に知り合いと話す感覚を取り戻していったようだった。

「桐生はん、これ着ろや」

「え」

「あんたその服微妙に似合うてへんで。あとキャップ。それ絶対ちゃう」

「……いいんだよこれで」

「ええからはよ着替えてき」

 服を押し付けた。
 龍司の物だから大きさは少し余るかもしれないが、大は小を兼ねるから問題はない。何より、服の種類が少ないのだろう、着ていた服は管理が追いつかず草臥れた風合いをしていた。風呂は、今までちゃんと入れていたのだろうか。
 着替えから戻ってきた桐生は、やはり少し服がダボついて困った顔をしていた。


 時間をかけて、わかったことがある。
 桐生は気が抜けると、ただぼうっとしてしまうようだった。龍司も無理には話しかけようとしない。ただ、同じ空間にいることを良しとした。
 過去のことや、あさがおのこと。遥のこと。東城会については、殊更に話題を避けた。どうして今のような状態になっているのか、そこに理由があるようだった。

 やがて日が傾き影が伸びてきた頃、うつらうつらとし始めた桐生にタオルケットをかけ、龍司はそっと家を出た。
 徒歩数分のところに大きめのイオンがある。大猫に精をつけるための食材を買いに行かねばならない。



 §



 まだ寝ているだろうか。すっかり日は落ちサラリーマン達が家へ急ぐ頃、龍司は桐生を置いてきた自宅へと向かっていた。自然と階段を登る足音を潜めてしまう。
 両手から下がったビニール袋でドアを擦りながら鍵を開けると、何かの鳴き声が聞こえた。焦った龍司がリビングへ向かい電気をつけると、そこには桐生がいただけだった。

 聞こえていたのは桐生の独り言だった。


――誰もいない。誰もいない。
誰もいない。俺もいない。誰もいない……


 桐生は感情のない表情で一点を見つめながらしきりにそう呟いている。

 一人にしたのは不味かった。
 龍司は荷物をバサバサと落とすと膝を抱えたままの桐生に駆け寄った。

「おい……おい!」

 両肩を揺さぶると、ややあって、桐生の目の焦点が合った。起きてからどのくらいこの状態だったのだろう。目は腫れ涙が零れ落ちた跡が頬についている。

「龍司……?」

 桐生の瞳は龍司の顔のパーツを一つ一つ確かめるようにフラフラと動く。

「あんた、何があったんや」

 それしか聞けない。自分の知っていた桐生は、敵わぬと思ったただ一人の男は、何故こんなことになっている……?


「……何もない」

「……」

「すまん、ちょっと出てくる」

 桐生は立ち上がりこちらも見ずにそう言った。

「あかん」

 許せるわけがない。何処へ行こうというのか。
 思わず龍司は桐生の腕を掴んでいた。

「……」

 離せ、とも言えず。
 教えろ、と無理強いもできず。

 暫し二人の間には沈黙だけ流れていたが、やがて思い出したかのように龍司が手を離し、のろのろと置きっぱなしであった袋を拾う。

「ええわ。とりあえずうまいもん作ったるから、待っとけ」

 台所へ向かう龍司を、気まずそうに桐生は見送ったが、外に出る気はなくなったのだろう。大人しく食卓へ座った。

「桐生、」

 龍司はそう声をかけるとペットボトルの水を投げた。反射的にキャッチしてしまう。

「飲んどけや」

 キンキンに冷えたのを買ってきたのだろう。ペットボトルは汗をかいて少しだけぬるくなっていた。





 §





 夜ご飯のおかずはチンジャオロースとトマトの卵炒めだった。みそ汁まで拵えた龍司に桐生は少し驚いた様子だった。


「……クックパッドや」

「あ、ああ」

「とりあえず食えや。話したなったら話せばええ」

 諦めていない。龍司の好意になんと返すべきかと考えていたが、目の前の料理に無性に空腹を感じた。ご飯を、食べよう。



 龍司は食事が終わると、桐生のことをちら、と見て「あんたピーマン食べれるようになったんやな」と言った。いつの話をしてるんだ、と思ったが、流れた月日を思うとどこから話していいかもわからない。

 結局その日は二人とも込み入った話はせず、就寝の準備を進めた。……桐生の歯ブラシは龍司が買ってきていた。


「桐生はんはわしのベッドで寝ろや。わしはソファで寝るさかい」

 そう告げると龍司は早々にソファに横になってしまった。

「そういうわけにもいかないだろ。家主なんだからベッドで寝てくれ。俺がソファで寝る」

「家主の命令なら聞けや」

「……」

 前髪を下ろした龍司がメンチを切ってくる。
 ――ひどく格好いい。女性が見たら卒倒してしまいそうな色気があった。

 桐生は一度寝室のベッドを確認すると、もう少し引き下がれないものかと気を遣った。

「じゃ、じゃあ、ベッドも広めなんだし……一緒に寝るっていうのは」

「そりゃわしが無理やわ」

「え?」

「広さどうこうは関係のうて、桐生はんと一緒に寝るんはわしが無理やわ。……諦めて大人しゅう寝ろや」

 もしかしてとても嫌われているのではないか。

 くるりとこちらに背を向けた龍司にこれ以上引き下がることもできず、桐生は仕方なく龍司のベッドを借りて寝たのだった。