静かだ。電車の音も、車の音もしない。ただ、しとしとと小さな雨の音がしていた。大きく響く、海の音とは違う……。

 桐生が目を覚ますと、何故か龍司が隣で寝ていた。驚き身を引いてしまうが、今度は反対に落ちてしまいそうで身を捩りバランスをとった。声は出さなかったが、ベッドが大きく揺れたからだろうか。龍司が目を覚ました。

「あ……? ……おはようさん」

「あ、ああ……おはよう。……なんでここに」

 ググッと背を伸ばす龍司は、気高い雄ライオンのようだ。

「覚えとらんか」

「……」

「フン、あんた……シーツのあとすごいで」

 顔を見てそう言われた。手で触ってみると、確かに頬に痕がついているようだった。

「あー……ねむ。……あんた食えへんもんあるか」

「……いや」

「せやったら朝食パンでええな? 服昨日買うたんあるさかい、着替えてきぃや」

 そういうと龍司は先にリビングの方へ向かってしまった。ドアの横には紙袋がいくつか置いてあった。もしかすると、とても迷惑をかけているのかもしれない。

 龍司がここで寝ていた理由も、教えてもらえていない。




 §





 昼は牛タンにするで、と龍司が言うから。

 東京で知っていた牛タンの店は、少し高そうなレストランといった様相だった。しかし、龍司と一緒に雨の中歩いて来たそこは、焼肉屋、に近いようなこじんまりした定食屋であった。
 メニューは、壁に貼ってある。
 麦とろごはん、牛タンセット。……よし、これにしよう。
 目の前に座った龍司は、メニューではなくこちらをじと、と見つめていた。

「何にするつもりや」

「……麦とろごはんの牛タンセット」

「あかん。たんバーグにせい。おばちゃん、たんバーグセットふたつ」

「おい」

「しゃあないのう。……あと牛タンだけのやつひとつ」

 はいはい、と店のお母さんがメモを書き殴り店主だろうか、厨房に立つおじさんに渡す。

「ハンバーグって何だ」

「たんバーグな。ごっつ旨いから食うてほしいんや」

 龍司はどうやらこの店によく来るらしい。無理矢理オーダーを変えられたことは少々癪にさわるが、常連に食べてほしいとまで言われたら受け入れざるを得ない。

 くるくると見回したが、壁のどこにも「たんバーグ」の文字は無かった。




 ――美味しかった。牛タンで作られたハンバーグは、玉ねぎの和風ソースがかかっていて癖になりそうな食感であった。

 充分にお腹を満たし外へ出ると、相変わらず重たい色をした雲が手が届きそうなほどすぐそこまで厚く覆いかぶさっていたが、雨はちょうど休憩中のようだった。傘立てから傘を取るとき、自分の渡された傘が龍司のものより背が高いことに気がついた。

 何か判らぬものが、ずし、と心に溜まったような気がした。





 §




 いつ出て行けと言われるのだろうか。
 尋ねたら答えが出てしまう。それがこわくて聞けそうにない。
 元はと言えば帰る場所も連絡先も身元も持たぬ自分だ。少し接触するだけで依存してしまうのはわかっていた。自分は桐生一馬なのだと。他の誰でもないのだと、数カ月ぶりに呼ばれるだけで心の奥が泣くように熱をもった。

 寄りによって他の誰でも為し得ない、一番甘く弱いところに来てしまった。……龍司のところなんて。
 この数ヶ月砂漠のように乾いていた心に、一日二日小さく沢山甘やかされるだけで柔らかな雨が降り続けて、既に溢れ出してしまいそうだった。……感情のコントロールもできなくなり、押し黙ることしかできない。


 ここにいる限り、龍司が死人の名前を呼ぶ。
 その名を二度と呼ばれないように。もう一度手放さなくては。

「龍司。話を聞いてほしい」

 龍司はテーブルの向かいで開いていたノートを閉じ、こちらを見上げた。口元の傷がぴたりと一文字になっている。

 窓の外はまた雨が降り出し、土砂降りになっていた。





 全てを話し終えるときには、やはり感情がぐちゃぐちゃになって泣いているような、叫んでいるような、最早日本語を喋っているのかもわからなくなった。
 龍司は時々目を閉じながら、口を挟むことなく最後まで静かに話を聞いていた。

 とうとう溺れているかのように荒く呼吸しかできなくなった。龍司を見ていると、彼がかつて抱えた遥を、思い出してしまう。遥。はるか。
 嗚呼、俺は遥やハルトを護るために死んだのではなかったか。何故本当に死ねなかったのか。最後の最後に、命さえあればと思ってしまった。しかし命だけでは、名無しの幽霊では、逆につらいだけだった。

 何故俺だけが生き残ったんだろうと、10年前に思ったことを思い出した。――すぐにでも錦や由美、おやっさんのところへ行こう。

 そう思った瞬間だった。ぐいっと横に引っ張られたまま、桐生は龍司の腕の中にいた。考えるのに夢中になっていたせいか、龍司が立ち上がり隣まで来ていることに気がつけなかった。

 なけなしの冷たい決意が、溶かされそうになる。

「桐生はん。……やっぱあんた、誰かのために生きすぎや」

「……」

「誰かのために生きすぎて、とうとう無うなってしもたんやな」

 龍司の声は、今までに聞いたことのない音をしていた。

「確かにあんたは、特別やったのかもしらん」

「……」

「もう特別は疲れたんやろ。……でも、ワシの側におったら、」

 一緒にガラクタになれんで。



――おちる。