「正直言うとね、ノイシュ。ボクは疲れたんだ。……もう生きているのが嫌なんだ」
古い友人にそう話しかけたのは、いつのことだっただろうか。
たしか、大樹が暴走した後。勇者ミトスの文献を調べに行く前、だっただろうか。予想通り、世界は分離して離れてしまうことはなくて、どうせクラトスが息子可愛さにどうにかするだろうと思った通り、姉さまを失うこともなく、一応の落ち着きを見せた頃、だったはずだ。
二人きりになれるタイミングがあって、撫でながらそう話しかけた。他のみんなには、ただノイシュとじゃれているだけに見えるだろう。囁くように抱き着いて、撫でて、そう零してしまったのは、まぎれもく……弱音、だった。
「キューン」
「ふふ、そんなことを言うもんじゃないって? でもね。ボクは……間違っているのかもしれない。……そう思い始めてしまったボクは……生きている意味がない気がするんだ」
「ワゥゥゥ」
「うん。ジーニアスも、リフィルさんも、ロイドも……いい人だよ。好きだよ。仲間にしてもらって嬉しいんだ。でも……」
でも、と。その先を言葉にすることは、できなかった。
周りの誰に聞かれるかわからないと警戒しているわけじゃない。怯えているわけでも、この先の言葉に対して決心が揺らいでいるわけでもない。
ちがう。違うのだ。ただ、ただ……人は大事なものを一つしか持っていけないことを、思い知ってしまうのが嫌なのだ。
(ナギサ)
四千年前。急に目の前に現れた、異世界の人間。
あの時だって人間は嫌いだったけれど、目の前で溺れて死んでしまいそうだった彼女を放っておくことなんてできなくて。飛び込んで、助けて。そうして……自分のことも、姉さまのことも、好きだよって、言ってくれたのを見て。はじめて、誰かに優しくするってことが素敵なことなのだと……誰かと一緒にいる喜びを知った。
姉さま以外はいらなかった。大好きな人が笑ってくれるのが一番だった。大好きな人が笑ってくれるならなんでもしてあげたいって思った。その大好きな人が姉さまだけではなくなって、彼女のことが、大好きになって。彼女が死んでしまうまでは、ずっと一緒にいたいって、思った、特別な人。
本物だ、泣いてしまいたい。もう涙なんてこの体では流せないけれど。
ひどく、ひどく、泣きたい気持ちだった。
(本当に変わらない。……ボクたちのことも、忘れずに、ここにいる)
どうして今になって、現れたのだろう。
どうして今なのだ。どうして。姉さまの復活が目前に迫った今なのだ。
どうしてあの頃から変わらない笑顔でそこにいるのだ。急にいなくなったくせに、今もまだ自分たちとの思い出を握りしめているなんてずるい。ひどい。どうして。どうしてボクのそばではなくて、彼らのそばにいるの。
ロイドが……ロイドのまっすぐすぎる光が、居心地の良い場所であることは、よく、わかるけれど。
彼の隣は、だめだ。まるで砂糖で作られた蟻地獄のような、優しく甘やかされてまどろんでしまうような魅力がある。かつてミトスが失った光の世界がそこにあって、何もかもを手放せば自分もここにおいてもらえるのだろうと思うと、揺らぎたくなる気持ちもわかる。
でも、だからってどうして、ボクの隣ではなく、そこにいるの。
キミは、ボクの隣にいてくれるはずじゃなかったの。
……そんな風にぐるぐると腹の底で渦巻くものがありながらも、気分が良かったのも事実だ。
もう会えないと思っていた人に会えたのは、純粋に嬉しい。正体を隠しているから、彼女の本音もよく見えて。本当に、自分たちのことを好きでいてくれたんだなってわかって、嬉しい。
もう繰り返したくないと言って自分から目を離さずに手を握って約束を違えなくないと四苦八苦する彼女を見るのは、独占欲が満たされるような気もした。さすがに、自分をかばって怪我をした彼女を見た時には肝が冷えたけれど。
ただ、彼女の傍にいたいと呟けうるだけで、自分がずっと欲しかった昔に戻ったような気がして、気分がよかった。
よかったんだ。すごく。嫌になるくらい。この場所が。
「……ごめん。今のは忘れて。ボクらしくなかったから」
そんな資格は、もうない。
この甘やかな場所に留まっていい己ではない。
何もかもを手放して放棄するような生き物でもない。
この四千年の間に、自分がかつてのような心をなくしてしまった自覚はある。目の前でどんな人間が切り裂かれようが気にならない。いつだったかの再生の神子の死にざまにだって何も思わなかった。
長い長い時間が、もう自分を在りし日の場所から遠く離してしまった。だからこそ、自分は立ち止まるわけにはいかないし、もう戻ることなどできない。そうとも。もう戻ることも立ち止まることもしないと、姉さまが殺されたあとに閉じこもった数日の間に決意したのだ。
姉さまもナギサも奪い取った人間たちなんて救わない。
姉さまもナギサも拒絶したエルフたちなんて救わない。
もう、あの頃の優しい、世界に希望を抱く子供はどこにもいない。
彼女が好きになってくれた己はどこにもいないのだ。
「……こんな選択をしたボクを、彼女が選ぶわけないんだ」
彼女は、ロイドたちと旅をしてきた。
もう、誰が死んでも心の痛まない己とは、違うのだ。