ぴぴ、と音が響く。どうやら通信が入ったらしい。
ミトスくんはそっとわたしを離してから、その通信を繋ぐ。聞こえてきたのはプロネーマの声だ。申し訳なさそうなそれに、けれどミトスくんは先ほどまでと違ってまったく感情をうかがえないような無表情で対応した。
「ご歓談中申し訳ございません、ユグドラシルさま。捕らえていたマナの神子たちが脱走したと情報が入りましたゆえ……」
「そうか」
それだけを答えて、ぷつりと通信を切る。
指示とか出さなくていいのかな、ちゃんと上の人が指示をくれないと勝手な行動できなくて困るんだよな、なんて。急に、二年前にこの世界に来てからは縁遠いものになってしまった社会人生活のことを思い出しつつ、先ほどの通信の内容を思い返す。
マナの神子たちが脱走した。つまり、ロイドたちは目的であるマナのかけらを手にして、今一生懸命に脱出しようとしているところなのだろう。
「ロイドたちが……」
……そうだ。今、大事なのは。コレットの病気を治すことだ。
そして、世界も元の形に戻す。みんながちゃんと、胸を張って生きられる世界を作る。
きっと……きっと、この気持ちはミトスくんも同じだって、思った。だってさっき、瞳が揺れた。彼だって、もしかしたらって、思っているのかもしれない。ロイドがコレットも世界も諦めないように、彼も、マーテルさんと世界の両方を諦めきれなくて、こんな形で世界を維持しているのかもしれない。
……なんて。それは、わたしの願望だ。彼はさっき、はっきりと「マーテルさんが願った世界を作るため」と言った。そのために、いろんなものを犠牲にして、四千年も生きてきたのだ。
その事情を知って、同情はした。理解はした。でも、それはそれ、これはこれだ。今までのこと、全部許せるわけはないと思う。
だけど、わたし、ミトスくんの手を離したくない。また繋ぐことのできたこの手を離したくないって思う。わたしも、世界もコレットもマーテルさんもミトスくんも、全部、諦めたくないって、思った。
だから、根拠も何もないけれど。まだ、彼に出せる代打案なんてないけれど。それでも、きっと一緒に考えることはあるはずだからと、今度はわたしから彼の手を掴んだ。
「ねえ、ミトスくん。本当に他に方法はないの? これから一緒に探そう。こんなのわがままで、なんの根拠もないってわかってるけど、でも、世界と誰か大切な人を助けたいって思うのはミトスくんもロイドも同じなんだから。マーテルさんのことだって、コレットを犠牲にしなくてもいい方法があるはずだよ。だからわたしと一緒に、」
「ナギサ」
そっと、彼の手がわたしの口を塞ぐ。ぐっと押し付けられたそれは結構力が強くて、わたしは言葉を発することができなくなる。
聞いてほしいの、と視線で訴えても、彼は困ったように眉尻を下げるだけだ。
けれど、じっと見つめてきたかと思えば、急に顔を近付けてくる。鼻の先がくっついてしまうほどの近く。その瞳に、焦ったような困ったような顔をしたわたしが映っていることがわかるくらいの距離まで彼が迫ってきて。
けれど、ミトスくんの手のひらがあるせいで決して触れられないような、そんな、近いようで近くない距離で、彼はぽつりとつぶやく。
「……どうせキミは、ボクを選んでくれないんだろうね」
そばにいてほしいと泣くような、そんな心細そうな声で、そう囁く。
今、一緒にって言おうとしているじゃないか。君を選ばないなんて、一言も言っていないのに。
そう言い返したいと思ったけれど、もちろん声はくぐもった音が出るだけで何も伝えられない。
ああ、もしかしたらこの言葉自体が、もうミトスくんを選んだものではないと言いたいのかもしれない。一緒にミトスくんが選んだのとは違う方法を選ぼうって言っているわけだから、ミトスくんを選んだわけではない、という屁理屈。
違うのに。わたし、どっちも諦めたくないってだけで。ああでも、それは押し付けなのかな。彼の四千年を無視することになるのかな。でも、でも、わたし。
「それでもいい。裏切られるくらいなら、味方になんてならなくていい。でもお願い。もう、勝手にいなくなったりしないで。約束して。……生きていて」
懐かしい口調で、彼はそんなことを言う。いろんな約束を果たせなかったわたしに、約束だよ、なんて言葉を投げかけてくる。
生きていて、という囁きに、わたしは急に目の奥が熱くなった。勝手にいなくなったりしないでとか、そんな願いは、間違いなく以前わたしが彼らをおいて行ったことに、彼が深く傷ついた証だったから。
そして、結局彼は、今も昔も変わらないんだって、強く理解してしまったから。
そうだね。さっきもちらりと言っていたよね。きっと、あの日に彼が世界を救うと言ったのも、わたしと同じだったんだ。
ただ、あの時みたいに、三人で、穏やかに過ごしたような時間が、これからも続けばいいって……みんなが、そんな世界で生きられたらいいねって。そうしたらずっと寂しくないねって。それだけなんだ。今も昔も。ただ、その手段を彼は、選ばなくなっただけ。
ゆっくりと、手が離れる。
その手を取ろうと手を伸ばしたけれど、それより先に、彼の体がふわりと浮いて、遠くへ離れてしまった。
ずっとそこにあった虹色の羽が一際強く輝いて、ひらりと広がる。一度目を閉じて、彼がわたしを視界に映す。その瞳はもう、先ほどまで見せてくれていた優しいミトスくんのそれとは違う、冷たいものになっていた。
「行くがいい。異世界の人間よ。私はクルシスの指導者ユグドラシル。もう……勇者でもなければ、ヘイムダールの外れに住まう子供でもない」
その言葉に、はっきりと線を引かれてしまったことがわかってしまった。
……彼は、もうとっくに、選んでいるのだ。
マーテルさんを何が何でも救うと。そのためにこれまで選んできた道から足を踏み出すことはないと。
わたしと一緒に歩くことは、ないと。
どこからともなく天使たちが現れて、わたしの腕をとる。優しい手つきだ。けれど有無を言わさないほどの力強さでわたしを引きずって行こうとする天使たちに、わたしはなんとか踏ん張りながらミトスくんに手を伸ばす。
だめだ。全然力で勝てない。どんどん、彼が遠くなる。
「ミトスくん」
「見逃すのは今だけだよ。……さよなら、ボクの……」
「待って、ミトスくん!」
その先の言葉が聞こえない。あんなに密着していたのに、もうこんなに遠く離れてしまった。
そのまま、閉じてしまった扉に、絶望するような感覚が胸を満たして。ああ、と掠れた声が零れる。
……選んでくれないのは、ミトスくんじゃないか。
そんな言葉が恨み言のように飛び出しそうになったけれど。
でも、彼の選んだ道に寄り添えないわたしに、そんなことを言う資格は、なかった。