兄妹たちの家だという宿屋に行くと、話を聞いていたらしい母親がお礼だと言って、無料で部屋を貸してくれた。
さすがにそれでは申し訳ないので子供達と遊んでみたり、宿にあるお酒を飲んで少しでもお金を払うようにしたのだけれど……まあ、ちょーっと盛り上がって飲みすぎちゃって、ヒューバートさんに怒られてしまったことは、許してほしい。だってわたしも教官も、久しぶりのお酒だったんだもん。ここのお酒は度数が高いのもあって、結構酔ってしまった。
お酒を飲むのを終えて、解散しても、なかなか酔いは冷めない。まだ体は火照っているし、ちょっとふわふわ、いい気持ち。
寝るのがもったいなくなっちゃって、子供達が寝たのを見てから、わたしはそっと扉を開けて外に出ることにした。
外に出ると言っても、遠くに行くつもりはない。明かりの無い街だから外に出ると危ないし、入り口の前から離れるつもりもない。でもぼけーっと突っ立っているのもちょっともったいなくて、わたしは入り口で雪に寝そべって空を見ることにした。
雪、冷たい。気持ちいいな。柔らかい。
見上げた空は、雪雲に覆われて現在進行形で雪が降るせいで、星一つも見つけられなくてつまらないけれど。
「こんな所で何やってるんだ?」
「アスベル」
キィと開いた扉から、ひょっこりとアスベルが出て来た。
サクサクと雪を鳴らして近付いて、寝そべっているわたしの顔を覗き込む。彼も眠れなかったのだろうか。アスベルは白い服だから、雪の中じゃあんまり目立たないなぁなんて関係ない事を考えて、ふにゃりと笑う。
「ん〜……酔い覚まし? で、星が見たかったみたいな?」
「なんだそれ」
くすくすと笑って、アスベルが隣に座り込む。彼も特に離れるつもりはないらしいけれど、特に会話がない。
いつもならなんとかして会話を作るが、生憎今は酔っているせいか、上手くネタが思い浮かばない。無言のままは居心地が悪いだろうかとちらりとアスベルを見るが、寝そべっているせいで空を見上げている彼の顔は見えない。
だが、沈黙を破ったのは彼だった。
「あんまり星、見えないな」
「あ、うん……雪雲が邪魔だよね」
「そういえば、ソフィが桃の木を見て何か思い出しそうだったんだ。結局、尻の形に似てるってだけだったみたいだけど」
「尻と桃かぁ……まぁ、桃尻とか言うしね。誰かの桃尻でも見たのかね」
「……シオリ、お前は何か思い出した事はないのか? そういう話、全然聞かないが」
自然な流れで聞いてきた彼に、わたしは目を閉じる。
考えたく、なかったのになあ。
「……わたしが忘れてるのは、一部分だけだよ? アスベルに会う前の事だけ。思い出すようなことでもないんじゃないかな」
明るい声で、心配しないようにそれとなく行ってみるけれど、反応からして上手くいかなかったみたいだ。忘れているのは、本当にここに来る直前のことだけ。だから、あんまり気にしないで、って言いたかったんだけど。
ごまかされてくれないかあ、とちょっと残念に思いながら、わたしはそれでもなるべく笑顔を崩さないように空を見上げた。
そこにはやはり、星は無い。
あの、羅針盤と呼ばれる空を覆う物も見えない。
空にあった海も、何も。
「……星がさぁ、見えないんだよね。あるはずなのに、見えない。……記憶だって、あったはずなのに思い出せない。思い出せないからわからない。わからないから……」
あ、言いたくないな。
言葉、これ以上、言いたくない。だから言葉につまった。
これ以上続きそうな言葉は、だめ。言いたくない。聞きたくもない。そう思っているのに、どうしてかな。ほろほろと言葉を零してしまったせいで、止まらなくなっちゃったのかな。思っていた以上に、酔っていたのかな。
普段なら絶対に言わないであろう言葉達に動揺する。笑顔が強張る。止めようとして、口を閉じようとして。
でも、でも。アスベルが。
アスベルが、じっとわたしを見ていて、わたしの言葉を聞いているって、思ったら、喉でつっかえてくれたはずの言葉が、勝手に零れた。
「……こわい」
ユ・リベルテの宿で呟いたのと同じ言葉。慌てて口を押えてなかったことにしようとした言葉。認めたくない言葉が、ぽとりと落ちて、音になって、静かな町にそっと染み込む。
言いたくない、言葉だ。だってほら、言霊、とかあるじゃない。言った言葉が本当になるとか、言うじゃない。だから、怖いって、言いたくなかった。認めたくなかった。
だって、ここにはそれがたくさんある。
知らないこと。わからないこと。思い出せないこと。こわい。
命をかけたこと。痛いこと。相手を傷つけること。こわい。
……今まで、頑張って自分をごまかしてきたこと全部、こわい。自分の常識とは違う世界、異世界、全部怖い。みんなが一緒にいてくれるからなんでもない顔をしていられたけれど、こわいよ。怖いんだ、全部。全部怖い。いつも怖くて怖くて、どうしようもないのに、一人で放り出される方が怖いから、ソフィのこと守るよって約束したこととか、みんなのことが好きだからって理由をつけて、ごまかしてきただけ。
……言ってしまったら、認めないといけなくなるから。だから、言いたくなかった言葉なのに。
一言言ってしまったら、わたしの口はもう言う事を聞けなくなってしまったらしい。次々に言葉を紡いでしまう。
「知らない事が、怖い。わたし、何を忘れたんだろう。何を知らないんだろう。なんで忘れたんだろう。なんで……」
なんで、わたしはこの世界に来たんだろう。
わたしは、この世界に来る前に何をしていたのだろう。
どうして、ここに来てからひどい頭痛に襲われているんだろう。
何もわからない。わからない。
「こわいよ」
わからないことだらけで、怖いって認めてしまったら、急に心細くなってしまった。泣いてしまいそうになった。目の奥がじんと熱くなってくる。泣いてしまいそうだ。いっそ泣いてしまいたい感覚を必死に抑えながら、なんでもない顔を意識して作って、空を見る。
星の無い空は、やっぱり暗い。でも、一番身近な白が、そんな空を隠すみたいにわたしの顔をのぞき込んできて。柔らかく、微笑んだ。
「やっと言ってくれたな」