74.水の原素、水の大輝石

みんなを見送ってから宿に戻って、わたしはぼんやりと椅子に座った。
ユ・リベルテの宿は涼しく、ピアノがあったりして高級ホテルみたいだ。何をするでもなく座るだけでもリラックスできる気がする。
部屋に一人で戻るのはちょっと寂しかったので、わたしはエントランスにある椅子に座って、サービスでもらったお茶を飲みながら、ぼんやりと考える事にした。

……みんながいたら考えられない、わたしがここに来てしまった理由を。
わたしは日本で暮らしていた一般人だ。平凡に生きていた。そこそこ悲しいこともあって、そこそこ楽しいこともあって、それなりに恵まれていて、それなりに災難で、まあまあ生きていた。
生まれてからずっと、自分がどういう生き方をしていたのかは、ちゃんと覚えている。でも、わたしがこの世界に来る直前のことは、何も思い出せない。アスベルたちと出会ってからも、それ以降も、暇さえあれば思い出そうとしてみたけれど……だめ。思い出せない。
何時も通り大学に行こうとした。それだけ。扉を開いて、外に出た後のことは、もう覚えていない。気付いたら海の中にいて空にいた。
その日の天気も授業も、きっかけも、何も思い出せない。
それでも確かに何かあったはずなのだ。そうでなければ、ここにいるはずがない。どうしてここに来ることになったのか。何か、理由があるのか。それとも理由もなくここに来てしまったのか……ああ、だめだな、やっぱりわからない。
直前の記憶、ちゃんと思い出せない限りは、絶対にわからない。
だとすれば、どうやったらわたしは、あの時のこと、思い出せるのだろう。何が、あったのだろう。

「ぁ、ぐ……っ!?」

ガツン、と何かで殴られたみたいに唐突に頭が痛んだ。
今まで何度かあった中でも一番酷い痛みが襲って、既に痛いのかもわからない。
ただ、椅子とは違う方向に力が抜けて、大きな音をたてて倒れてしまった事だけはわかった。

「ちょっとあなた、大丈夫!?」
「ぅ、ぁあ、ぅぐぅ……っ!!」

痛い痛い怖い苦しい辛い苦しい苦しい痛い痛い痛い……
色んな物が入ってきてそして出て行くような感覚。吐き出してしまいそうで、でも逆に何も出せないような息苦しさ。
ガタガタと震える体が、駆け付けてくれた人を拒絶したがる。

「はあっ……はあ、ぁっ……」
「大丈夫? 凄い汗……立てる?」
「ごめ、なさ……っ平気、です。ごめんなさい」

まだ震える体を抑えて、とにかく人から離れたくて立ち上がる。
でも覚束無い足ではすぐにふらりとよろめいてしまって、わたしは声をかけてくれたその人……女の人だ……のいる方向に倒れ込んだ。
こわい。ころされる。
何故だかそう思って、とっさに手を叩いて彼女から距離を取る。
頭が痛い。
……しまった。

「……っご、ごめんなさい、あの……!」

心配してくれたのに距離をとるとか失礼にも程がある。
いくら調子が悪いからってそんなのは良くない。
だからわたしは嫌なんだ。だからわたしは……!

「……私、マーレンっていうの」
「……え?」
「私はマーレン。宝石錬磨職人を目指してるわ。だからあなたを困らせるような事はしないはずよ。安心して」

そっと優しく乗せられた手に、ああ、気をつかわせてしまったと申し訳なくなった。
それと、わたしはそんなに怯えているように見えてしまったのかと。

「さ、とりあえず、部屋に送るわ。顔色も良くないし、ちゃんと休んで」

情けなくて気持ち悪くて苦しくて。
わたしはただ、頷く事しかできなかった。