2.目覚めて

柔らかい何かがわたしを包んで、優しい匂いが鼻をくすぐる。
しっとりとした花びらのようなそれが頬を撫でるのを感じて、わたしは閉じていた目を持ち上げた。
最初に目に映ったのは、清々しいほどに青く広がる空。その眩しさに一瞬だけ目を閉じて、再びおずおずと目を開けながら、ゆっくりと起き上がる。
綺麗な、青い空。それに負けないくらい鮮やかな緑に染まる木々が、柔らかな風に揺れている。わたしの肌を優しく撫でる風は、地面から白い花びらを吸い上げて、高く高く空へと連れていって。きらきらとした陽光がわたしを照らすから、その美しさにほうっと息を吐いた。
だって、綺麗だ。こんな綺麗な景色を、わたしは知らない。まるで天国みたいだ。
空も、木々も。わたしを優しく受け止めていてくれた、無数の白い花も。

「……あ?」

ちょっと待って、と脳みそが訴える。
何かがおかしい、と感覚が戻ってくる。
綺麗な景色。豊かな自然。美しい花畑。
ここは、どこだ。

「え、ちょ、ちょっと待って、待ってね、なに? ……ええと、ここはどこ? わたしはなぎさ。天織さん家のなぎささん……」

定番の言葉を口にしているせいで、意外と余裕があるような気もするけど、純粋に混乱している。
だって起き上がって辺りを伺っても、見覚えのない白い花畑が広がっているだけだ。周りに誰もいない。わたしだけ。生き物もいない。空を見てもどこにも高い建物は見えないし、直前までの記憶と一致しない。
もしかして、ここは死の間際に行くという花畑、だったりするのだろうか。
確か、そう確か、わたしは空から落ちてきた何かを受け止めようとして、気を失ったのだ。ついうっかり失敗して、うっかり頭をぶつけてうっかり死にかけているのかもしれない。うん。その方が自然、かも。
そう考えるとぞわぞわと悪寒が背筋を走るが、もうどうしようもない。せっかくだし、とりあえず歩いてみようなんて思ったのは、わたしがまだ混乱しているからなのか、動いていないと不安だからなのか。自分でもはっきりとはわからなかったけれど、とにかく自分以外の誰かがいてくれないかと、とにかくカンに頼って歩き出した。

「わ……」

花畑から踏み出すと、その先にはネットや雑誌でしか見たことがないくらいに美しいな森が広がっていた。
森、と聞いてイメージした景色そのまま。深い緑の森は静かでどこか神秘的で、けれど木洩れ日の隙間から見える景色は穏やかでほっとする。聞こえてくる軽やかな小鳥の囀りからして、ちゃんと生き物もいるのだろう。大きく息を吸えば胸を満たす草の匂いも、普段花屋の前で少しだけ嗅ぐようなそれよりずっと濃くて、どことなく甘い感じがする。
綺麗だ。ずっとここを散歩していたくなるくらいに。でもだからこそ、ここが明らかに自分がいた場所ではないのだと、強く認識してしまう。

やっぱりわたし、これから死んじゃうのかなあ。
それとも、最近よくある小説みたいに、異世界に飛んじゃいましたー、みたいな展開だったりするのだろうか。
なんて、さすがに都合がよすぎてありえないか。鏡どころかなんの所持品も持っていないからわからないけど、感覚的にいつも通りのわたしだ。誰か知らない人の体に生まれ変わってしまったわけではない。

しばらく森を進んでいくと、やがて湖に出た。
広い湖は、陽光を受けてきらきらと水面を光らせていて、やっぱり綺麗だ。こんなに透き通った水なんて初めて見たかもしれない。泳ぐ魚も、水底だってよく見える。見えすぎて自分の顔もよく映らないくらいだ。
すごい、と思わず呟きながら、縦横に巡らされた木の橋を歩いていく。たぶん、これは人が通るためのものでいいはず。ぎしぎし。ちょっと不安になる音をたてながら歩いていると、ふと、向こう岸で釣り糸を垂らしている男を見つけた。
やっと人に会えた、と肩から力が抜けるのを感じて、わたしは早足でその人に近寄る。

「あの、すみませ……」
「何用だ、人間」
「え、えと、道に迷ってしまったんです。ここはどこでしょうか?」
「どこ? この場所に来てそんなことを聞くのか? 本当に人間は低脳だな」

ぴしゃり。
話しかけた途端、こちらを見ることもなく突き放されて、わたしは一瞬ぽかんとする。
え、なんで見ず知らずの人にこんなに敵意をぶつけられているんだろう。
思わず泣きたくなってしまっていると、男は呆れたように息を吐いた。

「ここはエルフの里、ヘイムダールだ。もういいだろう。早く立ち去れ」
「立ち去れって…どうやって帰ったらいいんですか。わたしはヘイムダールと自分の国を繋ぐ道を知りません」
「それは貴様の責任だ。いいから早くどこかへ行け。私は人間も嫌いなのだ」

あんまりな対応にカチンと来るが、こっそり深呼吸することでなんとかそれを抑える。
いけない、いけない。怒らない、怒らない。ここまででわかる通り、運が悪いことにこの人はものすごく気難しい人だ。こっちが怒ったら何をされるかわからない。わたしは事なかれ主義。余計な火種は避けるべき。
ていうか人間も、ってなんだ。エルフってなんだ。なにそのファンタジー。俗に言う厨二病か。それともここって本当に異世界?
聞きたいことは増える一方だけれど、どうせこの人は答えてくれない。困っていることも変わらないし、とりあえずここがどこなのかをはっきりさせるために、地図でも見せてほしいと頼まなくては。

「それならせめて、地図などを見せてはいただけませんか? 後は自分で何とかしますから」
「……」

無視。
無視だ。
一生懸命怒らないように自分を抑えて下出に出ているというのに、無視。
ここまでされて怒らないわたしは偉いと思う。そんな元気とか勇気があるわけじゃないんだけど、だいたいの人はもうここまでで怒っても仕方ないと思う。

でも困ったことに、頼れそうな相手がこの人しかいない。さてどうしたものか、と考えていると、後ろから呻き声のようなものが聞こえた。
なんだろうと振り返ろうとして、そのすぐ横を何かが駆け抜けていく。数秒遅れて聞こえた衝突音と振動。思わず体がすくむけれど、釣りをしている人は相変わらず水面を見るばかりだ。

「ひぇ……っ?」
「魔物か。丁度いい」
「は、え、はっ!?」

魔物、という単語にびくりと体を震わせながら視線を向ければ、そこにいたのは大きなイノシシのようなものだった。
ようなもの、というのは、大きな角と逆立つ長い毛はが、わたしの知ってるイノシシと違うから。大きさだって、本物を見たことはないけれどここまで大きなものではないはずだ。
そんなイノシシはいったい何に興奮しているのやら。唸り声を上げながら蹄で何度も地面を抉って、再びこちらへと視線を合わせる。間違いなく、わたしに向かって突進する気満々だ。
思わず近くの男に助けを求めようとするが、彼はいつの間にか離れたところに移動していて、ちゃんと安全なところまで離れて、もう興味は失せたとばかりに釣り糸を見つめている。わたしを助ける気はないって、言われなくてもわかる。

あ、死ぬんだ。
視界の端で走り出したイノシシを捉えて、冷静に思った。
死ぬのか、わたし。
こんな知らない場所で、一人ぼっちで、道を聞いただけでものすごく嫌われて、イノシシに突進されて。どうしてこんなことになったんだろう。わたしが何したっていうのだ。

「ぅわ……っ!?」

さすがに痛いのは嫌だし、死にたいわけじゃない。その一心で命からがら、不格好に、倒れこむようにしてなんとかその突進を避けるが、勢いあまってそのまま湖に落ちてしまった。
なんの心構えもなく落ちたから、目と耳と鼻に水が入って痛い。水を飲み込んでしまった喉が痛い。もうあちこちが痛くて、パニックで、泳ぐことも浮くことも出来ずに、バシャバシャと水面を叩くことしかできない。
なんとか水中から顔を上げて目を開くが、あの男はわたしを完全に無視している。イノシシはもうどこかへ行ってしまったようだけれど、予想通り、助けてくれる気配なんかない。

なんなの。なんなのここは。
本当に天国ならもっと優しくしてよ。
水を吸った服が重くて、一向に体勢が戻せない。どんどん沈んでいくのが怖くて怖くて、冷静になんてなれない。再び閉じてしまった目を開くことができない。苦しい。
どんどん体力を奪われるのを感じてもう無理、と諦めかけた時、何かがぐいと手を引っ張るのがわかった。
当然、それに抵抗する力なんてない。水中に引きずり込まれるのかとも一瞬思ったけれど、その何かは大きな音を立てて、わたしを水から引き上げられた。

「あの、大丈夫ですか?」

柔らかい声がする。優しい声だった。
けれどわたしは呼吸をするのがせいいっぱいで、ゲホゲホとせき込んで、飲み込んだ水を吐き出すのがせいいっぱいで、なかなかその声の主に目を向けることができない。
おっかなびっくり、たどたどしく。背中を撫でる手に優しく導かれながら、少しずつ落ち着いていく。必死に呼吸を繰り返す横で、男が舌打ちするのが聞こえたけれど、もう彼のことなどどうでもいいと、とにかく水を吐き出した。

ああ、生きてる。
生きている、わたし。
恐怖やら安心やらいろんな感情でガタガタと体を震わせながら、なんとか顔を上げて。それから、わたしを助けてくれたであろう、服を水に濡らしたその子を見て、ハッと息を飲んだ。

彼は…たぶん、彼、は、びっくりするくらい綺麗な子だった。
わたしより小さい彼は、おそらくまだ10を数えたくらいの年齢だろう。わたしよりずいぶんと年下の子供だけれど、わたしが今まで見たことがないくらい綺麗な子だ、と思った。
天使かもしれない。天使が助けてくれたのかも、なんて。そんなことを一瞬思っては、ぽろり。思わず目の端から零れてしまったものは、涙ではなくてただの水滴だと思いこむことにした。

「あの、一度ボクの家に……服も濡れちゃったし、拭かないと風邪をひいちゃうよ」
「あ、ありがとう、ございます……あの、あなたは……」
「ボクはミトス。……ミトス・ユグドラシル」

助けられてよかった、と。
そう微笑んだミトスくんは、忘れられないくらい、とても綺麗だった。