「すみません、お洋服までお借りしてしまって」
ミトスくんの家だという、湖からも少し離れた静かな場所にある、小さな家まで連れて行ってもらったあと、わたしは彼の姉だというマーテルさんの服に身を包んでいた。
ミトスくんが美人だから予想していたが、マーテルさんもとても綺麗な人だ。わたしより年下のようだが、よく日本人は童顔と言われる通り、並ぶとわたしの方が明らかに年下に見えることだろう。
彼女は柔らかく微笑んで、暖かなお茶をくれる。その笑顔だけで、ほっと心が解けるような気がした。
「いいのよ。それよりごめんなさいね。あの人はエルフの中でもかなり珍しい、ちょっと感情的な人だから……」
「びっくりしましたけど、大丈夫です」
びっくりしたどころかじゃないけれど、とりあえず曖昧に笑ってごまかして、マーテルさんの淹れてくれたお茶を飲む。
それよりも、当たり前にエルフという名称が出てきたことを飲み込むのでせいいっぱいだった。死後とか死にかけの世界の可能性を強く見ていたけれど、本当に異世界に来ちゃったのかもしれない。
だからってどうにもならないんだけど。まあ、とにかく、わたしは今まで自分が暮らしていた場所とは常識も何もかもが全然違う場所にいると言うことは、よーくわかったので。考えるべきは、これからどうやって生きよう、ということだ。
見知らぬ土地で、果たしてわたしは一人でちゃんと生きていけるのだろうか。もしかしたら文字とかも違うかもしれない。エルフ、なんて単語がでてくるような場所では、当たり前に使っていた機械機器なんてなさそうだし。
これでは地図とか見ても意味がないかもしれない。ここを出たとして、とりあえず街にでも行けばなんとかなるんだろうか。
「ナギサさん、さっき道に迷ったって言ってましたよね? 家にある地図はこれくらいしかないけど……」
「え……わ、ありがとう! すごく助かるよ! ありがとう! 君はいい子だねぇ!」
考え込んでいると、ミトスくんが古ぼけた紙を差し出してきた。どうやら、わたしとあの男の人との会話を一部聞いていたらしい。すぐに助けられなくてごめんなさい、と彼は視線をそらしたけれど、きっと、わたしを助けるということは、かなり勇気が必要なことだったのだろう。
だから気にしないで、という気持ちを込めて、家の奥からわざわざ探して持ってきてくれたのだろう地図を受け取って、その形のいい頭をわしゃわしゃと撫で回した。
ちょっと乱暴だったのか、ミトスくんは戸惑っているような表情を浮かべたけれど。でも、ちょっと照れくさそうに頬を染めるのも見えたから、可愛いなあとわたしもつられて頬を緩めた。
そうしてひとしきり撫でた後、緊張しながら地図を開く。……が、予想通りというか、なんというか。そこにはわたしの知らない地形と知らない文字が描かれていた。
そこまで地理に明るくはないけれど、この陸の形が地球のそれではないことくらい、ちゃんとわかる。どこにも日本はないし、西洋のそれもない。まったく知らない場所と知らない文字がそこにある。
思わず表情を曇らせると、ミトスくんが不安そうにのぞき込んできた。
「……やっぱり、読みづらい?」
「あ、ううん、違うの。わたしの知ってる地図と違ったから、びっくりして」
「あら? でも、少なくともこの辺りはもう数十年変わっていないはずよ?」
「で、ですよね……その、この国の名前は……」
「テセアラだよ。一応、ヘイムダールはテセアラ領になってるから」
当然のように出てきた名前を聞いて、ああ、と思わずうなだれる。
わかっていた。わかっていたとも。わかっていたけれど、改めてそう認識すると途方に暮れてしまう。
ここは、死後の世界なんかじゃない。
それよりもっと、ずっと、遠い場所だ。
「……あの、信じてもらえないとは思うんですけど……わたし、ここの世界の出身じゃないんだと思います」
初対面の相手にするには、突飛すぎる話だと自分でも思う。
でも、一人で抱えるにはどうしたらいいのかわからなくて、わたしは青ざめながら思わずそう話し出した。
わたしの暮らす世界のこと。直前にあったこと。気付いたらここにいたこと。
突然異世界から来ましただなんてそうそう信じられることじゃないし、わたしも混乱しているせいで、説明もわかりにくかっただろう。
それでも、マーテルさんたちは驚きながらも最後まで話を聞いてくれた。
わたしが話し終えたのを見て、マーテルさんはひとつ頷く。
「そうなの……そうねえ、私たちまだ生きてるから、死後の世界ではないわね」
「真っ先にそこですか」
「でも困ったわ。世界を越えるような魔術なんて知らないもの」
「ナギサさんもどうやって来たか、わからないんだもんね……」
これじゃあ解決の糸口もつかめないや、と。やけにあっさりとわたしの説明を受け入れる様子にこっちの方が呆然とする。
だって、適当に話を合わせているわけじゃない。二人ともしっかり受け止めて悩んでくれているのがわかる。わたしの言葉を信じて、わたしのことを思ってくれている。
否定せずに聞いてくれるだけでもありがたいのに、それがはっきりと伝わってくるから。思わず頬がゆるんでしまえば、ミトスくんが不思議そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたの?」
「あ、いえ、なんか……なんかすみません、信じてもらえて、安心、しちゃって……本当にありがとうございます。ミトスくん、マーテルさん」
本当に力が抜けるくらいに安心してしまって、はーっと大きく息を吐く。
よかった。まだ、全然、絶望的、じゃない。いや、これからどうやって生きればいいのかとか、本当にこの世界で暮らしていけるのだろうかとか。心配することも、不安なことも、たくさんあるんだけど。
ただ、今。こうしてわたしの話を聞いてくれて、受け止めてくれて、向き合ってくれる人がいるという事実に、ものすごく安心した。
それだけでも十分だと笑えば、二人も優しく笑い返してくれる。
「困った時はお互い様だもの。そうだわ、今日は泊まっていったらどうかしら」
「え?」
「どうしたらいいのか決めるまで、まさか野宿させるわけにもいかないし……ミトスもいいでしょう?」
「え、でも……でも、人間を泊めたからってまた……」
一人じゃ不安に決まっているもの、と名案だとばかりに表情を明るくするマーテルさんの申し出に、だがミトスくんは少し不安そうに影を落とすのがわかった。
そりゃあ、そうだ。一応身元は明かしたけれど、それでもまだ初対面の、謎の人物を家に泊めるなんて、かなり勇気がいる。
それに、彼らもエルフなのだろう。なんとなく、勝手な偏見で、エルフって人間のこと好きじゃなさそうだし。さっきの男の人も、思い切りわたしのこと人間って見下している感じだったし。他の同じ考えの人たちにわたしという人間をかくまっていることを知られたら、何か嫌がらせとかされるかもしれない。
そんな恩を仇で返すような真似はしたくないと思えば、これ以上お世話になるわけにはいかない。本当は泊めてほしいけど、これはわがままだ。さっき助けてくれただけで、話を信じてもらえただけで、もう十分。
不安に震えそうになる体なんて無視して、わたしはなるべく笑って首を横に振った。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。服が乾いたら出ていきます。ちゃんと、なんとかしてみせます。それに、森を出ればきっとなんとかなりますよ。だから、気持ちだけ受け取っておきます。ありがとうマーテルさん」