乾いた服に着替えて、わたしは彼らの家を後にする。
少し慌ただしくなってしまったのは、間違いなく焦っていたからだ。これからどうしようと途方に暮れていることを知られたくなくて、でももうどうにもならないのだから少しでもこの世界に慣れなくちゃと思って。これ以上迷惑になるわけには行かないし、とにかく森の外へ出なくちゃと、そう焦っていたから、である。
それでも、ささやかな現実逃避というか、楽観的というか。結構里から離れた場所にあった家から出て、あの湖を通って森に出るためにと向かったエルフの里であるヘイムダールの姿に、わたしは少しだけ感動してしまった。
だって、わたしがイメージするファンタジー世界そのまま、静かな森の中の里だ。みんな見たこともない服を着ていて、耳が尖っていて。わあ、わたし本当に異世界にいる! と、ちょっとはしゃいでしまいそうになる。
まあ、そんなことしている場合ではないし、恥ずかしいからしないけど。
それに、エルフにはわたしが人間であることが簡単にわかるらしい。見ず知らずの人がいる……というよりも、どうしてここに人間がいるんだ、とばかりにちらちらと視線を寄越してくるのを感じて、非常に居心地が悪い。
わざわざ話し掛けてくる人はいないのが救いだろうか。何故ここにいるのかという問いに返せる説明は持っていないので、下手に話しかけられる方が怖かった。
「わっ」
自然と速足であるいていたところで、すれ違いざまに小さな子供が転ぶ。
これは、さすがに素通りするわけにもいかない。いいことをしたら後で何かが良いことを引き寄せるかもしれないし。わたしはしゃがみ込んで、起き上がる途中の男の子に話し掛けた。
「大丈夫?」
「うん……へーき!」
「お、泣かないなんてかっこいいじゃん」
立ち上がってみせた彼の頭を、少し乱暴に撫でてやる。さっきミトスくんにやったのと同じくらいの力加減だったけれど、男の子は特に戸惑うなんてことはなく。くすぐったそうにしながらも誇らしげに、無邪気に笑顔を返してくれた。
「あれ、姉ちゃん、人間か? なんでこんなとこにいるんだ?」
「ああ……道に迷ったの」
「だっせえなー、人間ってみんなそうなの?」
「まさか。単純にわたしが間抜けなだけだよ」
「おい、貴様まだいたのか」
男の子と朗らかに話している横から、聞き覚えのある声がして表情が強張るのがわかる。
だって、この声、まだ覚えている。さんざん無視をして、さんざん嫌味なことを言った声にそっくりだ。いやいやながらも振り返れば、そこにいたのは予想通り。さっき湖で会ったエルフの男である。
わたしの危機を無視してまで釣りをしていたわりに大して釣れなかったのか、彼のバケツには水の量のわりに小さな魚が数匹いるだけしか見えない。小さいことだけど、ちょっとだけ日頃の行いが悪いからだよ、と心の中で悪態付いておいた。
「……どうも」
「さっさと出てけ、人間」
言われなくても出て行くところである。
とはいえ、いちいちそんなことを言うつもりもない。彼はわたしと話をしたくないようだったし、それならとっとと立ち去ってあげるのが気遣いだ。もちろん皮肉である。
けれど、余計ないさかいを起こしたくないというのも事実だ。わたしは最後にもう一度男の子に笑いかけて、早足で男の横を通り抜けようとする。だがそれより早く、頭上から水が降ってきたことで再び足を止めた。
せっかく服を乾かしたのに。またずぶ濡れだ。ぱたりぱたりと水が頭を伝って落ちる視界の向こうで、カランとバケツが転がるのが見えて、わたしはバケツの水を頭からかけられたのだと理解した。
「お、おい、やりすぎだろ? 姉ちゃんはただの人間なのに」
「でもさっきこいつを助けたのはあのハーフエルフたちだ。ハーフエルフなんかに助けられるような人間……どうせ、人間の中でもクズだったのさ」
「姉ちゃん……ハーフエルフなんかといたの? 変なの」
なにそれ。
なにそれ。なにそれ。
慌てて男の人の行動を諫めようとしてくれた男の子は、ハーフエルフという単語を聞いた瞬間顔をしかめる。心底理解できないという顔でわたしを見て、ハーフエルフと一緒にいたわたしが悪いよ、とばかりに首を振った。ついさっき彼が諫めようとした男の行動なんて忘れて、全部、何もかも。ハーフエルフが悪いとばかりに、話が切り替わる。
なんだそれ。
違うでしょ。今、わたしを攻撃したのはそのハーフエルフとやらじゃなくて、初対面からずーっとわたしを敵視してるそこのエルフでしょ。
そもそも何だ、ハーフエルフって。そんな単語知りませんけど。
一緒にいた、ということは、もしかしてミトスくんとマーテルさんのことを言っているのだろうか。
彼らがハーフエルフなのだろうか。ハーフエルフだから、二人は里から離れた小さな家に住んでいるのだろうか。たったそれだけの理由で、こんなにも簡単に手の平を返すくらい、みんな彼らを毛嫌いしているのだろうか。
それが当然だと、こんな小さな子供までもが思っているのか。
いや、おかしいでしょ、それ。
水で体が冷えているはずなのに、顔が熱くなるのを感じる。怒ってる。怒りたいって体が叫んでる。だめだ。たぶん、ここで怒ったら、わたしじゃなくて、「ハーフエルフなんかと一緒にいたから」って周りは曲解する。だからここは全部無視して行くべきだ。そうすればわたしへの追撃もないし、ミトスくんとマーテルさんに迷惑がかかることもない。
わかる。わかる、けど。
「ハーフエルフなんて、人間よりもずっとバカで変なヤツらなのに」
吐き捨てるような言葉を聞いて、わたしの中で何かが千切れたような気がした。
「……わたしの世界のどっかで偉い人は言いました」
思わず言葉にしてから、黙ってやり過ごせば良かったのにと頭を抱えたくなる。最初に思った通り、そうするつもりだった通り。わたしはここをやり過ごすべきだったのだと、わずかに震えた情けない声に泣きそうになる。
波風立てないように生きるのは苦手じゃない。むしろ、自分が我慢すればいいならする方。周りに流されて意見を決める典型的な日本人。そういう生き方をずっとしてきたのに。
でも、黙ってられなかった。今は、だめだった。
だってずっと不安だったわたしを助けたくれた二人のことを悪く言われたのだ。だめ。流せない。わたしが彼らにどれだけ救われたと思っているのだ。ハーフエルフだなんて、わたしは知らないもの。
「みんな違ってみんないい。人となりを決めるのはその人本人。人種も性別も関係ない。……ハーフエルフだの知らない単語言われても、わたしは知りません。そんなの、その人個人には何も関係ない」
強く目の前の男を睨み付ける。
この人より、ミトスくんとマーテルさんの方がずっとずっと素敵な人だった。
種族にこだわるこの人の方が、ずっと軽蔑すべきだと思った。
彼らをけなしてほしくなかった。
「少なくとも、困っていたわたしを助けてくれたのは彼らです。彼らの方が、あなたなんかよりも、ずっと立派だと思います」
力強く言い放てば、男は相当プライドを傷つけられたらしい。
顔を真っ赤にして睨んできた彼は、そのままぶんと腕を勢いよくふるった。
「なんだと? 貴様、たかが人間の分際で!」
殴られる、と思って両腕を前に出すけれど、襲ってきた衝撃は思ったものと全然違う。殴られなかった。そういう痛みはない。代わりに、どこからともなく強い風が吹いてビリッとわたしの腕や足を切り裂いた。
ピリピリと肌を裂いた痛みに、突然なんだ、と驚く暇もなく、襲い掛かってくる強風に耐えきれずに体が後方へと投げ出される。
体が浮くなんてこと本当にあるんだ、なんて。能天気な脳みそが考えたのは一瞬だけ。次の瞬間には背中を強く打ち付けて、思わず息を詰まらせる。
一体何が起きたのだと混乱するが、それよりも男がまだ追撃を仕掛けようと腕を持ち上げるのが見えた。
やばい、と頭の中で警報が鳴る。
殴られるより痛い。殴られるより危ない。そう訴えている。
それでも、だからといって何をすることも出来なくて。わたしはただ、少しでも痛みが和らげばいいと、目をぎゅっとつぶった。
「バリアー!」
つんざくような風の音が耳に届くけれど、先ほどのような痛みはない。
どうしたのだと目を開けば、わたしの目の前には薄い壁のようなものが出来ていた。
今度は何だ、何が起きているんだ。痛む体をおさえながら顔を上げると、こちらに向かって駆けてくるミトスくんと、植物のような装飾をつけた杖を持つマーテルさんの姿が見えた。
「ナギサさんっ」
「ミトス、く……げほっ……マーテルさ、げほっぐ、う、」
「なんだお前たち。こんな場所まで来やがって!」
「すみません。それでも、彼女は本当に無害で無関係な人間なんです。どうか彼女を傷つけないでください」
駆け寄ってきたミトスくんがわたしの体を支えるように抱き起してくれる。その向こうで、マーテルさんがわたしを庇うように前に立って、男に向かって深く深く頭を下げるのが見えた。
ああ、わたしのせいで、彼女に頭を下げさせてしまっている。迷惑をかけたくないと思って出てきたはずなのに、どうしてこうなっているんだろう。
「エルフは人間をただ痛めつけるような……そんな種族ではないはずです」
「ハーフエルフのくせに、知ったようなことを!」
男はマーテルさんの頬を強く打つ。
それを見て思わず立ち上がるが、先ほど強く打ち付けたせいもあって再び咳き込んでしまった。
慌ててミトスくんが背中を優しく撫でて、わたしの体を支える。その手が震えているのがわかったけれど、それを指摘する余裕も無かった。
男はマーテルさんにひとしきり罵声を浴びせたあと、ようやく気が済んだのか放ったバケツを乱暴に掴んで立ち去って行った。
いつの間にか集まっていたらしいエルフたちもそれをきっかけに、一人また一人と去って行く。あのそばにいた男の子も、もうどこかへ行ってしまっていた。
結局三人だけがその場に残る。マーテルさんはわたしの目の前でしゃがむと、ホッとしたように笑った。
「さ、私たちの家に戻りましょう」
「マーテルさん……」
「心配で追いかけて良かった。ほら、立って」
怪我も直さないとね、と。先ほどのことなんて忘れたように優しく笑うマーテルさんを見て、思わず泣いてしまいそうだった。
悔しいと思った。結局、彼女に迷惑をかけただけだった。
悲しかった。意味も分からず突然訪れてしまった異世界に、こうも酷く拒絶されることが悲しかった。
間違えてしまった。庇うことも守ることも、恩を返すことも出来なかった。事態を悪化させただけだった。悔しくて、悲しくて、でもだからって、ここからすぐに逃げ出せるわけもなくて。差し出されたマーテルさんの手を握って、ミトスくんに支えて貰って歩きながら、わたしはぐっと唇を噛む。
たまらなく、悔しかった。