結局、わたしはマーテルさんとミトスくんの家にお世話になることになった。
里の外れの方とはいえ、人間がエルフの里に住んでもいいのかな、と思わないでもなかったけれど、挨拶に行った長老は「あまり里を乱すようなことはしないでくれ」とだけ言って、あっさりとわたしが住むことを許してくれた。
これは他の人も同様だ。へえ、ここで暮らすんだ、それだけ。「ハーフエルフと暮らすなんて変わり者だ」と顔を顰められることはあったけれど、あの男の人のように激しく拒絶することはなかった。どうやらマーテルさんの言った通り、あの人がちょっと変わり者だっただけで、基本的にエルフというのは感情の起伏が薄くて、我関せず、悠久の時をのんびりと生きる、といった性格の人が多いらしい。
あくまで彼らが拒絶するのはハーフエルフだけ。人間には、そんなに興味がない。だからそこにいたって自分には関係ない。挨拶すれば挨拶を返してくれるし、意地悪をされることもない。余所者としての一線は引かれているけれど、この距離はこの距離で、きっとちょうどいいものだった。
そうして、異世界へと来てしまってから数か月。
わたしは今、ヘイムダールで平和に暮らしている。
「ええと……これで、「薬になる、ファンダリアの花です」……になる、かな」
「正解よ。よくできました」
こういう時は花丸をあげるのよねと、わたしが書いた文字の横に花丸を書くマーテルさんによかったあとほっと息を吐く。
わたしは今、マーテルさんにこの世界の文字を教わっている最中だ。
元の世界に帰る方法もわからず、このまま永住する可能性が高い今、一通りの読み書きができるに越したことはない。知らない間にとんでもない契約を交わして借金生活、なんてことになっても怖いし。最近は買い出しだとか簡単なお仕事だとかに行くことも増えてきたし、とにかくこの世界の通貨や一般常識を覚えることは、わたしにとって最重要課題だった。
他にも筋トレも始めた。だってマーテルさんもミトスくんも決して力持ちではないし、わたしよりも年下だ。ここは一番年上であるわたしが、彼らも頼れる存在にならなくてはならない。……ちょっと、思い上がりすぎな気もするけど。彼らのために、って理由がわたしの原動力になっているのも事実なので、見逃してほしい。
それに、里ではたまに、彼らにものを売らない、なんてことをする人もいる。わたしが代わりに行けばあっさり売ってくれるし、毎回売ってくれないわけじゃないから、単純に機嫌が悪い時にハーフエルフという存在に八つ当たりをしているだけなのだろう。
ハーフなんて、わたしの価値観からすれば珍しいものでもなければ、いちいち拒絶するようなものでもないのだけど。人間らしい感情豊かさを持ち続けるのが云々、エルフほどではないけれど千年は生きる寿命に魔法が云々、とかなんとか説明されたけど、いいとこどりでお得じゃん、としか思えなくて、よくわからなかった。
人によってある程度違うことがあるのは当たり前だし、みんなで仲良くなれないことなんて当然だ。どうしたって小さな差別や区別が生まれてしまうのは仕方ないとして、拒絶するのではなく、うまく折り合いをつけて生きていけばいいのに。
なんて、能天気に無責任にわたしは思ってしまうけれど、まあ、人って自分と違うものに対して抵抗があるものだし、それと同じなのだろう。たぶん。
まあエルフの人たち、わたし以上に事なかれ主義というか。のんびりと自分の好奇心を満たすことを重視していて、それを邪魔されるのを嫌う節があるから、イレギュラーな存在であるハーフエルフが苦手なのだろう。たぶん。
……わたしはエルフでもなければこの世界の人でもないので、その感覚はよくわからないのだ。むしろ、異世界人の方がよっぽど異物だし、エルフもハーフエルフも違いがわからない。
とにかく、わたしの恩人でもある二人がそうやって息をひそめて生きているのを見て、さすがのわたしも我慢ならなかったのだ。できることなんてほとんどないとわかっているけれど、二人の傍にいて、彼らの支えになりたいと思った。
だから、就職してからはあまりしていなかった、新しいことを知るための勉強だって真面目にするし、ダイエットしようとしたけど三日坊主で続かなかった筋トレだって毎日やる。二人のことをもっと知りたいって、自分から足を踏み出す。
たまにから回ってしまうことも、怒らせてしまうことも、この数か月の間には当然あったけれど。ごめんなさいを言って仲直りをして、何かあればありがとうを伝えて。少しずつすり合わせて、歩み寄って。何度も話をしながら、わたしたちはこうして一緒に暮らしているのだった。
「あれ……マーテルさん、今日は少し体調悪いでしょ」
「あら、そんなことないわよ?」
ふふ、と笑ってみせるマーテルさんの顔色は、夜の頼りない明かりのせいもあるけど、決して良くは見えない。
一緒に暮らしてわかったことの一つ。マーテルさんは、あまり体が丈夫ではない。虚弱、というほどではないけれど、熱を出してしまうことはままあった。
生まれつきというのもあるだろうけど、少食だと言って、いつもミトスくんに渡すご飯の方が多い様子を見ていると、きっと栄養が足りていない部分とかもあるのかもしれない。
食べ物の見た目はあまり、元の世界のものと変わらないけれど、どれにどんな栄養が多いのかはわからないので歯がゆい。とりあえず、少しでも多く食べられるように里のお手伝いを頑張ったり、食べやすいようにと味付けを変えたり煮込む時間を多くしたりと挑戦してみてるけど、効果がどの程度出ているのかは、まだわからない。
ミトスくん曰く、前よりは元気な日が多いとのことだけど。気を使ってくれているだけかもしれないし、ミトスくんだって華奢だ。言い方はあれだけど、二人にはいっぱい食べて太ってほしい。完全に気持ちは孫にとにかく何か食べさせたい祖母である。
少し、話がそれてしまったけれど。とにかく、わたしは彼女の体調の変化にはものすごく気を付けている、ということだ。
なので、顔色が悪いのであれば、これ以上の無理は禁止。額に手を当てれば、ほら、ちょっと熱い。大事なのは十分な栄養と睡眠。そして今日の夕飯はもう終わったので、この後にするべきはゆっくり休んでぐっすり眠ること!
「ほら、ちょっと熱あるもん。もう今日のお勉強はおしまい! よーしわたしも寝るから、ほらほら早く布団に入って!」
「あらあら……ふふ。ナギサはなんだか、お母さんみたいね」
「そう? 歳の差的には、お姉さんくらいで留めてほしいんだけど……」
ベッドへと押し込めば、マーテルさんは大人しく従いながらもくすくすと笑う。素直にベッドに入ったマーテルさんの枕元に座れば、彼女はぐいぐいと服の裾を引っ張った。
これは、わりと最近ねだられる、定番のものだ。だからいいよ、と伝えるために膝を叩けば、彼女は嬉しそうに笑ってわたしの膝に頭を乗せてきた。
……お母さんみたい、かあ、あんまり言われたことないから、変な感じ。確かにわたしの方が年上だけど、そう変わらないし。お姉さん、の方がまだ落ち着くんだけど。その結果、こうして甘えてくれるならいいかな、とも思う。
その柔らかい髪を撫でながら、わたしはなんとなく気が乗ってしまって。くしゃくしゃとかき混ぜるように撫でまわした後、ぎゅうっとその頭を抱き込んだ。
「おーよしよし、よくぞこんなに優しい子に育って! ……なーんちゃって。いつも頑張ってるもんね。いいよ、わたしの膝で良ければいつでも貸すよ」
「まあ、本当に? 嬉しいわ。ナギサの傍は、とても落ち着くもの」
ふふふ、と笑って髪を直してから、今度は優しく頭を撫でれば、嬉しそうに頬を擦り寄せてくる。
可愛い。マーテルさんはわたしとそう年が変わらないはずで、おっとりしているけどちゃんと大人びていて……でも、最近はこうしてくっついてくるから、本当に可愛い。
彼女にもらった優しさを少しでも返せていたらいいなあ、と思いながら撫でていると、ふと、マーテルさんがぽつりとつぶやいた。
「……優しくしたら、優しくしてもらえると思っていたの」
その方が素敵だもの、と。そう囁くマーテルさんは目を閉じたまま。わたしの膝に擦り寄ったまま、表情は変えない。
「ずるい考え方だな、って、思っていたけれど……やめないでよかったわ」
「……ずるくなんてないよ。そうしようって思ってできることじゃないし。優しくしたいって思って、優しくできるマーテルさんは、本当にすごい人だよ」
ただ。優しくしてほしいから、優しい人であろうとしたのだと、彼女は言う。それはきっと、わたしに最初に手を差し伸べた時のことも言っているのだろう。下心があったの、と言いたいのかもしれない。
でも、それって本当にすごいことだ。優しくあろうって、思ったところで実行できる人なんてそんなにいない。だって、どんなに優しい人でも、傷つかないわけでも怒らないわけでもないのだ。優しくしたいと思っても気持ちが抑えられなくて、ひどいことをしてしまうことだってある。それを全部堪えて、人に優しくできるのは、すごい。
だから、実行できるマーテルさんは本当に優しい人なんだよ、と。そう伝えるように頭を撫でていれば、彼女は小さな声で「よかった」とささやいた。
「片付けとか終わったよ……って姉さま、どうかしたの?」
「なんでもないわ。先にナギサを独り占めしていただけ」
「えー、ずるい。ボクも混ざりたい……」
「いいわ、いらっしゃい。」
部屋に入ってきたミトスくんにマーテルさんが両腕を広げて迎え入れれば、わたしの膝に姉弟が揃って頬を擦り寄せてくる状態になる。
最初はちょっとぎこちなかったミトスくんも、すっかりわたしに慣れてくれたらしい。彼はすごく勇気のある子だけど、マーテルさんほど人懐こくはない。わたしが何か空回りした時に怒るのもだいたい彼だった。
それでも、そうしてたくさん話し合って、お互いのちょうどいい距離を覚えたからだろうか。最近はぎこちなさがなくなったどころか、こうしてマーテルさんと一緒に「ボクも」と言ってくっついてくれるようになった。
可愛い。ここまで長かった。美少女と美少年の姉弟がわたしの膝に頭を乗せているなんて、ものすごいご褒美だ。異世界に来てから大変だったけれど、これだけで報われた気がする。なんだったら、本当に彼らの親になったみたいだ、なんて。
どちらかというと、勉強の面でもその他でも、まだまだお世話されている側なので、そんなことはまだ、胸を張って言えないのだけれど。
「そうだ! 今日はわたしがお話してあげよう」
「え、ナギサにお話できるの?」
「ミトスくん、君はわたしをなんだと思っているのかね。そりゃあ、この世界のお話なんてほとんど知らないけど、わたしの世界にある物語ならいっぱい覚えてるもん。今日はそれを聞かせてあげる」
「ふふ……今のは、ミトスなりに楽しみってことよ」
「ね、姉さま!」
かあっと顔を赤くするミトスくんに、二人して笑い声を零す。大丈夫、わかっている。彼もお姉さんと同じで大人びているように感じるけれど、こうして素直になれない部分があったり、ちょっと甘えん坊だったりと、年相応に子供らしいところがあるのだ。
ぽんぽんとミトスくんをなだめるように背中を叩いてから、それでは、と一つ呼吸を置いて話し始める。
内容はわたしの世界の……ということで、定番中の定番、日本昔話だ。
「昔々、あるところにお爺さんとお婆さんがおりました……」
今日の話は桃太郎。
鳥や犬や猿といった動物たちが、桃太郎と力を合わせて鬼退治をする話。
選んだ理由は、なんとなくだけど。あえて言うなら、種類の違う動物と人間が協力する話を渡したかっただけである。
おじいさんとおばあさんの出会い。鬼退治への旅立ち。仲間たちとの出会い。そうして力を合わせて鬼を倒して、めでたしめでたし。
そう話を締める頃には、マーテルさんの穏やかな寝息が聞こえていた。
「姉さま、寝ちゃったね」
「そうみたい」
「良かった。今日、どこか体調悪いみたいだったから。……あのね、ナギサ」
「なあに?」
「どうして、ずっとボクたちの傍にいてくれるの?」
じっと。静かにわたしを見上げる瞳は、とても綺麗な色をしている。
わたしを湖で助けてくれたのと同じ目が、まっすぐわたしを見ている。わたしの言葉を待っている。
彼は、ずっとそうだ。まっすぐに姉の優しさを受け取って、まっすぐに人を見る。人見知りをするくせに相手が困っていれば助けるし、彼なりにまっすぐ生きている。
「本当はね、ある程度したら、きっと出て行っちゃうって、思ってたんだ。だってボクたちはハーフエルフだから……ずっと二人だけで暮らしていたから。それが当然だって、思ってたのに」
「……ミトスくんは、わたしがいない方がいい?」
「違うよ、そう言ってるんじゃない。いろいろ助かってるし、それに……何より姉さまが、すごく頼りにしてる。姉さまはボクを守ってくれるけど、守ってくれる人がいなかったから。一緒にいてくれるの、感謝してるんだ」
ぶんぶんと首を振って、ぎゅうとわたしの手を握りしめる。膝に顔を埋めてしまったから表情は見えないけれど、ボクじゃ力不足なんだ、と絞り出しされた声が寂しそうだったから、わたしは無理に表情を見ようとはしなかった。
一緒にいてくれて感謝している。その嬉しい言葉の先には、きっと「だからいなくなったときが怖いよ」という言葉が続くのだろう。ちょっと、わたしに都合がいい気もするけれど、彼の反応を見る限り、そう違うものではないはずだ。
いつかの未来を怖がって、今が受け入れきれない。どこか落ち着かなくて、焦って、でもどうにもできない。
そうだね。全部わかるよ、とは、言えないけれど。ぼんやりと未来が怖い気持ちは、わたしにもわかる。何かが大きく変わってしまうかもしれないのは怖い。今まで通りが変わってしまうことは怖い。もしかしたら、今までの自分は間違えていたかもしれないと気付くのは、とても怖い。
……わたしは、事なかれ主義で、ふわふわと風に吹かれるまま、ぼんやりと流れに身を任せて生きてきた。このままでいいのかなと思いながら、何も変えることができずに過ごしていた。どこか落ち着かなくて、焦って、でも何かを変える勇気もなかった。
だから、というわけじゃないけど。今だって、わたし自身じゃなくて環境が変わっただけだけど。
ミトスくんには、マーテルさんには。不安ばかりじゃない時間を過ごしてほしくて、なるべく優しく声をかけた。
「みんな違ってみんないい」
「え?」
「聞いてたんでしょ?」
あの日、エルフの男に言ったこと。
そう言外に問えば、彼はおずおずと顔を上げて、ゆっくりと頷く。
彼に言葉をぶつけたのは、今考えてもわたしらしくなかった。黙ってやり過ごすのが一番だったって、今でも思ってしまう時がある。そうすればマーテルさんが叩かれることなんてなかったし、迷惑をかけることもなかった。
でも、確かにあの行動があったから、わたしは今ここにいる。自分らしくない、大きな変化を伴う行動をするのはとっても怖いけれど、悪い結果ばかりじゃないのだ。わたしは少なくとも、今、彼らと暮らしている時間を気に入っている。
「わたしは二人が二人だから好きなの。湖でわたしを助けてくれたミトスくんが好き。わたしを心配してくれたマーテルさんが好き。わたしのことを叱ったりするのにいつもなんだかんだと気にかけてくれるミトスくんが好きだし、かなり天然だけど芯が強くて優しいマーテルさんが好き。わたしとも、他のみんなとも違う部分をたくさん持っている二人のことが、その違いが、違うっていう魅力が、とっても大好き」
ただ、ミトスくんとマーテルさんという個人のことが好きなのだ。
別に、異世界に来てしまったという不安がなくなったわけじゃない。これからどうしようって、今も考える時はある。
でも、それ以上に二人のことが好きだから。
二人と関わって、嬉しいと思ったから。
助けてくれた二人のために何かをしたくてたまらなかったから。
だから、傍にいることにした。できることなんてほとんどないけれど、わたしの持つありったけのものを彼らに渡したいと思った。
それだけだった。
「それだけ。未来とか詳しいこととか……そんなの、何にも考えてないの。二人が好きだから一緒にいたい。それじゃダメ……かな」
「ううん! ううん……ありがとう。ありがとう、ナギサ」
ホッと泣きそうなくらいの笑顔を浮かべて、ミトスくんは握りしめていたわたしの手を抱きしめるように抱え込む。すがりつくようなその手はとても暖かくて、わたしのそれより小さくて。何かしてあげたくなって、そっと彼の小指に自分のそれを絡めた。
ミトスくんは不思議そうにわたしを見上げたけれど、約束の指切りだよと教えれば、ぎこちなく小指を絡め返してきた。
「約束しよう。わたしとミトスくんは、ずっと一緒だよ」
「……うん。約束だよ、ナギサ」
絡めた小指ごと、大切そうに自分の手を包んで、嬉しそうにはにかむ彼のことを、わたしは一生忘れないだろう。
絶対に。いつかこの手を離してしまったって。さよならをしたって。わたしがどういう結末を迎えたって。
絶対に、忘れない。