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宿についてからも、ハインリヒはそわそわとせわしなく部屋をうろついていた。
予想していたよりも沢山の魔物が来ていたらしく、窓の外にはちらちらと町の中へ入り込んでしまった魔物の姿が見える。それも手伝って、心配でたまらないのだろう。アンジェリカも特に何も言わず、ベッドの上で丸くなるように座った。
時折聞こえる魔物の雄叫びと断末魔。
魔法を詠唱する声。
剣の響く金属音。
震える地面。
魔物は自分の欲望や憎悪、そして要らないと否定してしまった感情である…つまりは自分の黒い感情が自分の感情を蝕んでいるのだ。当然、いい気分になんてなれない。聞こえる音から逃げるように耳を塞いで、アンジェリカはどこまでも自分を憎んだ。
それがまた、魔物を増やしてしまうのだとわかっていても、自分を嫌う事は止められなかったし、自分を責める言葉も頭の中から消えてなくなりはしなかった。

…わたしを殺してるのは、わたしだ
…わたしがいるからこの世界は
…アリス
…わたしがいなければでもこの世界は
…呼ばないでわたしなんか
…アリス
…どうしてどうしてどうしてどうして
…わたしが逃げたから
…アンジェリカ
…わたしは…

「うわぁっ!?」

突然響いたハインリヒの悲鳴と壁が崩れる音に、アンジェリカはハッと近くに置いていた桜月を手にとった。
ガラガラと崩れるのは、自分達が借りた部屋の壁だ。
レンガで出来ていたはずの壁には大きな穴が開き、そこから入る光と土煙で何が起こったのかいまいちよく見ることができない。
だが聞こえてきた魔物の声と聞き覚えのある男の声に、アンジェリカは状況を理解する。

「見つけたぜアリス…オレは嬉しいと歓喜しているぞ。」

そこに立つのは、頭にやる気をそがれるような顔の人形…そして現在進行形で魔物に噛まれているギョロを乗せた、長斧を持つ青年だ。
前に一度アンジェリカを殺そうとし、そしてパトリシア達と最初に顔を合わせるきっかけとなった青年…確か『クイラ』と呼ばれていたと、彼女は震える体を誤魔化すように唇を引き締めた。

「…っ」
「クイラ?どうして…」
「オレはちょっと魔物よりだからな。利用するのは簡単だ…予想外に多くて驚愕などしていないぞ。本当だと言い張るぞ。」
「余裕そうだが人形は噛まれているぞ。」
「うるさいオレは怒るぞ!」

強がるために言ったアンジェリカの言葉に斧を振るうクイラをすんでのところで避けて、アンジェリカは窓から外へと飛び降りる。宿屋をこれ以上壊し、困らせるわけにはいかないという思考からだろう。幸い、ここはあまり高くない。
ハインリヒも呆然とクイラを見ていたが、慌てて窓から身を乗り出した。

「あ、アンジェ!」
「逃がすかよ!」

続いて飛び降りたクイラは、その落下の勢いも使って長斧を振り下ろす。
当然、受け止められるわけがない。
アンジェリカは転がるようにそれを避けて、続けて放たれた魔物の口から伸びる雷を桜月ではじく。
相変わらず鞘から抜けないそれだが、街道を渡る際にジーンから教わった通りに横になぎ、その勢いで回し蹴りに繋げた。
上手く決まったそれは魔物の柔らかい腹に食い込み吹き飛んでいく。決まったという高揚と足に残る不快感に顔を僅かに歪ませながら、アンジェリカは再び襲いかかってきたクイラに意識を向けた。
ぐるぐると柄だけで回転される長斧は、刃と柄がまるで両刃のように交互に凶器として向けられ受け流しにくい。必然的に防戦一方になりながらも必死に自分の刀で受け止めるが、力も経験も明らかに勝ち目が無い…やがて痺れ始めた自分の両手に、アンジェリカは思わず桜月を手放してしまった。
当然その隙をクイラが見逃すはずがない。あっさりと足で肩を踏まれるように押し倒され、その喉に長斧の刃を突き出される。完全に動けなくなったアンジェリカに、クイラは片方しか見えない目に浮かべる笑みを濃くした。

「前よりは手応えがあったが…まだ弱いとオレはお前を笑うぜ?」
「…っ」
「アンジェ!」

律儀に中を通って外に出て来たハインリヒが、アンジェリカとクイラを見てすぐに駆け寄ろうとする。だが、すぐに斧を突き出されて簡単にその足は止まった。
クイラは、自分を何度も戦いで負かす少女といつもいる少年に明確な嫌悪感を浮かべながら、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。

「勘違いすんなよ?コイツはアリスだ。アリスを助ける必要なんてないだろ…オレは静かにそう聞くぞ?」

その言葉はあまりにも単純で、そして彼らの常識だった。

アリスは世界を壊す。
アリスは己の一部であるはずの自分達を殺す。
だからアリスは自分達が殺して、殺して、殺して、殺して…十万の死をもって、現実に返さなければならない。
それはこの世界の常識であり、目的であり…パトリシアの願いだ。
助けるなんて、ありえない。

そう言葉裏に言われ、ハインリヒは何も言えず口をつぐんだ。今にも攻撃を受けてしまいそうなアンジェリカを前に。臆病にも。
アンジェリカはそんな彼を見て、乏しい変化ながらも自嘲する。わかっていた事だと、大丈夫だと言って。クイラに肩を踏まれて地面に転がりながら、諦めたように笑う。

「助けなくても構わない。わたしは殺されるべきだと理解している。確かに嫌だけど…わたしはこわくなんて、ない。」

だから大丈夫だと言って目を閉じる彼女が強がっているなど、考えなくてもわかった。しかし彼女の刀は彼からも彼女からも随分離れてしまっているために、投げてやる事もできない…いや、できたとてハインリヒは『出来ない』のだろう。
すっかり黙り込んでしまったハインリヒを、だがクイラは蔑むように見やる。それからもう彼には興味が失せたとばかりにアンジェリカに視線を戻して、それから愉快そうに笑みを浮かべた。

「わかってるじゃねえか。そうだ、お前は殺されるべきだ。だってお前が殺したんだから。お前が嫌ったのだから。だから当然だと、オレはお前を殺す。」

少女の、声にならない悲鳴があがる。
軽く…傷は深いが、それをつけた本人によっては軽く…切られた腹部からは、せまい身体から解放された事を喜ぶかのように血が流れた。放っておけば確実に死ぬ深さ。だがクイラはそれでは足りないと再び得物を構えた。

…いいの?このまま見殺しにして。
不意に、誰かがそう問いかけてきたような気がした。
…いいんだ。彼女はアリスなんだから。でも、さっきまで仲良くしてたのに。仕方ないよ、どうせ僕なんかには何も出来ない。かっこよく助けることも、守る事も。前を向くことだって、出来ないのだ。どうせなら、彼女みたいになりたいのに

「待って…」

ゆっくりと、振り上げられる長斧が視界に映る。
それはやけにゆっくりと見えて、ハインリヒは自分が震えているのが凄くよくわかった。

「待って、クイラ…」

声も弱々しく小さく、震えている。
張り上げられない。
臆病なのだ、自分は。
最初から諦めて悲観して、そうしてそれを言い訳にしていたのだから。
…どうせ、僕は、
…守れないのだから。
彼女のように、なんて。

「待って!殺さないで!」

聞こえた声に、クイラは振り上げた姿勢のままそちらを向いた。
きっと魔力を具現化して創ったのだろう、剣を構えて震える少年の姿に、僅かだが動揺する。カタカタと剣先が震えているのがよくわかるし、何よりも瞳には今にもこぼれそうなほどの涙を浮かべていた。

「あ、アンジェを…殺さないで…!」

ぎゅう、と目をつぶってしまったハインリヒに、アンジェリカは仕方ない奴だなと、頬を緩める。彼は、必死に、動けないながらも助けようと全身で示してくれた…それだけで、十分すぎるほどに満ち足りた気分になった。
だがもう随分と血は抜けてしまって、襲う目眩は自分が65回目、死んでしまったと示している。
クイラはにやりとした笑みを消す事なく、むしろ見せ付けるようにハインリヒに笑う。それからアンジェリカを蔑むように見下ろし、長斧を勢い良く振り下ろした。

「ちゃんとできるじゃない、リィン。」

聞こえたのは、何かが爆ぜる音、だった。





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