12


ずっと、後ろを見ている。
辛いものだけを見ている。
苦しさが友達だった。
忘れてはいけないと、被害者ぶって。
そうしてずっと、後ろだけを見ていたことを。
僕は、受け入れよう。
受け入れて、向き合って、許そう。
そうしたらほら、僕だって、前を向ける。


目覚めて最初に見たのは、茶色い天井。感じたのは柔らかい、だがどこか庶民臭さを感じさせるシーツの感触。
自分がいる場所が宿屋のベッドなのだと理解するのに時間はかからなかった。
ハインリヒはゆっくりと瞬きを繰り返すと、ぼんやりとした頭で辺りを目だけで伺う。

「目が覚めたか?」
「…アンジェ…?」

少しかすれた声で、傍らに座っていたアンジェリカの名前を呼ぶ。ぼやけた視界でアンジェリカの存在を認識して、ようやく自分が寝ている理由を思い出した。
久しぶりに魔力を使って疲れたのだ。体中から力が抜けるような感覚とともに、自分は意識を手放した…相変わらず貧弱で脆いと自分を責める言葉を脳内で浮かべて、アンジェリカに姿勢を向けた。

あの後どうなったのかと、視線だけで問えば、彼女は少し悩むようにしてハインリヒに彼の眼鏡をかけてやった。ようやくしっかりとした視界で彼女を見れば、アンジェリカはゆったりと説明を始める。

「クイラは帰った。魔物も…今は二人とも、壊れた建物の修理の手伝いに行ってる。」
嗚呼、では自分も少しは役に立てたのかと僅かに微笑めば、アンジェリカに小さく名前を呼ばれる。
彼女は相変わらず変化に乏しい表情を曇らせて、ハインリヒをじっと見つめた。

「わたしは、自分が嫌いだ。この世界も。こんな世界しか生めない自分は本当につまらなくて愚かで醜くてどうしようもなくて…だけど、だから。」

…やっぱり僕だ、と思った。
自分の責め方も泣きそうな顔も、似ているとぼんやり思う。
それは彼女がアリスである何よりの証明だと気付き、自分は魔王とも呼べる彼女を守ってしまったのだと、少し申し訳ない気分になった。
勇者を目指す彼女のように、そうと知らなかったわけではない。なのに、自称勇者と行動している自分は敵を守ったのだ。
きっと、世界への裏切りだ。
何せ、アリスは、

「ありがとう。わたしを助けようとしてくれて。」

言われて、思考を止めた。
微かではあるが、アンジェリカが笑ったのだ。
それはいつアリスと知られ襲われるかわからないと、いつも気を張っていたせいかもしれない。それでも彼女が笑うところなどほとんど見ていなかった。ようやく本来の彼女に…といっても、自分もその彼女の一部ではあるのだが…出会えた気がしてなんだか恥ずかしくなって、ハインリヒは思わず視線を逸らす。何故か涙も浮かんできてしまった。

「べ、別に、僕は…!」
「リィンー。起きたかしらー!」

バンといっそ気持ちいいくらいの音をたてて、パトリシアが部屋に入ってくる。そのままの勢いでずかずかと遠慮なくベッドまでくると、容赦なくハインリヒの上に飛び乗った。
潰れたような声を彼があげても、彼女には一切関係ない。早口にべらべらと持っていたいくつかの花を振り回しながら、いつものように言葉をまくしたてていく。

「見て見て!お礼にってお花貰ったの!やっぱりパティは勇者よねこうやって感謝してもらっちゃうんだもの!リィンやアンジェのもあるわ!アンジェのはこれ!可愛いでしょ?きっとアンジェに似合うと思ったの!それでリィンには、はい!」

ズッと鼻に押し付けるように、持っていた花…どうやら一人二輪ずつらしい、アンジェリカの手にも二輪押し付けられている…を四輪、差し出した。
それを受けとれば、パトリシアの手からは花が無くなる。勢い余って渡しすぎなんじゃない?と視線で訴えれば、彼女は勝ち誇ったように笑った。

「あんた今回頑張ったから、パティの分の花もあげるかしら。やっぱりあんたもやれば出来るのよ…頑張ったじゃない、ハインリヒ。」

珍しく、そう、パトリシアにしては本当に珍しく、優しく微笑んで、ハインリヒの頭を撫でる。
それに感極まったのかついに彼は泣いてしまって。握りしめた花に滴が落ちるのを見ながら、アンジェリカもそっと笑って自分に手渡された二輪の花を見た。

アンジェリカはやっぱり、自分が嫌いだったけれど。それでも、二人は、愛しかった。
『彼女』とはまた違った愛しさだ。
停止した自分ではなく、前進する自分…

「…わたしも、まだまだ捨てたものじゃないんだな。」

それを好きだと思える自分が、いた。



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