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もう慣れてしまった、死んでいく感覚。
後ろから襲ってきたのは、あの蛇のような女の魔物だった。ジーンが離れたのを見て、這いずってきたのだろう。アンジェリカの体を貫いて、それは再びどうと倒れ伏して。アンジェリカもまた、倒れて。

「アンジェリカ!」

ジーンが呼ぶ声がする。
すまない、またすぐに動くから回復魔法は勘弁してくれ…そう返そうとして、代わりに血が零れる。
口から溢れる血は嫌いだ。まるで吐血したようなそれは、彼女を思い出すから。置いて行った彼女を。逃げてしまった彼女を。
…見ろ、俺がお前の結果だ。
男の言葉が頭の中に反響する。結果。それはなんだ。
彼女のこと?自分のこと?ここにきてしまったきっかけであろう、自分を切りつけた切り裂き魔のこと?わからない。わからない。いや、気付きたくない。
…恨んだ。身勝手にも。
…俺がお前の結果だ。

「嘘だ…」

気付きたくない。男の言葉の意味なんて。
気付きたくない。男が一体自分の何かなんて。
ああ、それでも。それでも、わかってしまったから。わかりたくないのに、気付いてしまうから。
見ないふりを、したい。
なかったことに、したい。
大好きな彼女を恨んでしまったことなんて、嘘だと。

「わたしは…」
「駄目だ、アンジェリカ!」

「わたしはそんなこと思ってない、こんなの嘘だ!こんな感情はいらない!」

そう叫んで、同時に。
アンジェリカの叫びをかき消すように、大きな咆哮が辺りに響いた。
叫び声の中心を見る。それは男だった。彼はずっと無表情だった顔に苦悶の表情を浮かべて、しがみ付くように自分の体を抱いて。呆然とするジーンの目の前に膝から落ちて。そうして、その体を変形させた。
すらりとした体から大きな突起物が突き出して、叫び声が濁っていく。ぱきりと急速に乾燥した肌が音を立ててひび割れて、男の顔だったものが違う何か異形なものに変わっていく。
大きくひしゃげてしまったかからだ。明らかにバランスのおかしい腕。廃村に響く濁った咆哮。
異形のそれは、だが間違いなく、魔物、だ。

呆然とその流れを見て、これが魔物になるということなのか、とアンジェリカは起き上がることも出来ないままそれを眺める。
今まで散々聞いていたけれど、どこか夢物語のように感じていた、それ。魔物になってしまう、人。感情。
否定したから。
嘘だと、否定したから。
男だったものはぎょろりとした目で二人の姿を捉える。再び上げた咆哮は、姿の変わってしまった悲しみだったのだろうか。
長い腕を振り回しては二人を切り裂いて、そのまま廃村の向こうへと跳んだ…逃走、した。

切り裂かれて地面を転がったまま動かないジーンに、アンジェリカはまだ残る痛みを堪えながら起き上がる。自分と違って不死ではない彼が死なないように、死んでしまわないように。彼女を恨んでしまったショックで何かを好きになることを放棄してしまわないように、そちらへ向かおうとする。

と、後ろから冷たい何かが首元に突き付けられた感覚がした。
冷たい、刃が押し当てられた感覚。
それの主が誰であるか、振り向かなくてもわかった。この殺気にはもう慣れるほど出会った。何度も向けられた。いっそ心地いいほどの、殺気。

「今どんな気分だと、オレは問う。」
「…どんな気分、なんだろうな。」

強く、強く否定した。見ないふりをした。
だから正直とても楽だ。楽だけれど、見てしまったから。
殺したつもりになったけれど、未だに魔物として残っているはずの男を見たから。
一度生まれてしまえば、どれだけ否定して押し殺して見ないふりをして捨てても、こびりついたまま消えないことを、知ったから。

「殺してやる。」

彼は、そう言った。
もう何度も言われた言葉だ。

「オレが、何度でも。殺してやるし、嫌ってやる。それがオレだからと、オレは言う。」

そう言って彼は。クイラは。自分を嫌う彼は。
目の前で、まるで殺されるのを待つ囚人のように座り込んでいる少女に向かって。
高く。高く。高く。自分の長斧を振り上げた。


「どうぞ、お幸せに。」


「クイラ。」

名前を呼ばれて、クイラは動きを止めた。
声の主はジーンだ。なんとか起き上がって、おそらく自身で治癒術を施しているのだろう。淡く光る手で切られた部位を抑えながらクイラを見る。
どこか悲しそうに。でも、相変わらず優しい笑顔を浮かべようとして。

「彼女は今、知ったよ。」

つらそうに武器を持ちながら。
彼は、言葉を続ける。

「今、知ったんだよ。」

ジーンの言葉に彼は何を思ったのだろう。
だからまだ大丈夫だと言いたいのか、だから殺す必要はないと言いたいのかと、怒鳴ってやりたかったのだろうか。
だが彼はそのどれも行わず、彼にしてはあっさりと武器をしまってその場から離れて行った。
クイラの背中を見送って、また二人残されて。そうしてジーンはアンジェリカに近付いて、やっぱり、笑った。

「…帰ろう、アンジェリカ。」




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