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駆け出した先に、何かがあるだなんてことは思っていなかった。ただ、自分を見つめるジーンの目がなんだか申し訳なくて。だから手を振り払って森の奥へと駆け出した…のだが。
「お前がアリスだな、とオレは確信を持ってそう聞く。」
「…」
自分を睨む長身の男に、無意識に後退りをする。
前髪に隠れて片方しか見えないが、自分を睨む彼の瞳は、ジーンとは正反対の憎悪だけが浮かんでいた。頭に乗せられたピンク色でギョロ目のウサギのぬいぐるみは随分と場違いだが、アンジェリカの視線は其方よりも彼が持つ長斧に向けられる。
それは確実に、アンジェリカを殺す為の凶器だ。
刃先を向けられ思わずぎゅっと両手で抱えた刀は、先程勢いで拾ってきた物だが…その鞘は抜けない。見た目から思うよりもずっと重たいそれは、アンジェリカの細腕では僅かにその刀身を見せることしか出来ない。そもそも刀を使った事なんてない。剣道などを習っていたはずのないアンジェリカの日常の中で、刀どころか包丁に触る機会すらほとんど無かったのだ。ただの飾りと言ってもいい唯一の武器に、アンジェリカはきゅっと唇を噛み締めるしか出来ない。
今更、自分の名を叫んだジーンから逃げた事を後悔しても遅いのだ。彼以外は「敵」だとわからなかったわけでは無いのだから。
カタカタと手足が震えるのに気付かないフリをして、真っ直ぐに駆け出して振りおろしてきた彼の刃を不格好に避ける。ぶおん、と空を切る音がやけに耳元で聞こえて、ぞわりと肌が粟立つ。まだ救いなのは、彼が何故か真っ直ぐにしか突進して来ない事だろう。だが相手は本気でアンジェリカを殺そうとしている。一度捕まればその時点で死ぬ。どうやら十万回殺されなければ死なないらしいが、痛みはある。
先程自分で何度も確認した事実に、アンジェリカはブルリと体を強ばらせた。今更だと、自分を嗤いながら。
「やぁっ…!」
長斧を避けながら、鞘に納まったままの刀を勢い良く振り下ろす。大したダメージは与えられずとも、隙が出来れば逃げる事も出来るだろう。そう考えての行動だが、やはり彼はアンジェリカと違って何度か戦闘経験があるらしい。
それを簡単に避けて、アンジェリカの真上から自らの得物を振り下ろす。リーチの長い長斧にはアンジェリカの居場所は近すぎるらしく、実際にアンジェリカの背中に鈍い痛みを与えたのは長い柄だったが。それでもその衝撃に耐えることなど出来なくて、雨でぐちゃぐちゃになっていた地面に勢い良く突っ伏す。
すぐに転がって追撃を避けるが、体にまとわりついた泥が気持ち悪いし何より恐怖が突き抜ける。アンジェリカは起き上がるとそのまま男とは正反対の方向へと駆け出した。
「ギョロ!援護しろとオレが叫んだぞ!」
〈めんどー…聖なる白百合の乙女の誓い〜〉
男の頭上にずっとぶら下がっていた奇妙なぬいぐるみから声がしたかと思うと、そのぬいぐるみの背後に魔法陣が浮かび、声に呼応して男の体が鈍く光る…それが魔法だと、しかも、身体能力や魔力を上昇させるものだとアンジェリカが理解できたのは、この戦いが終わってしばらくしてからになる。男の指先が強く輝くのを見て、咄嗟に体を下げた。
「我雷、爆ぜよ雷動!」
「ぅぁっ」
しゃがみ込んでしまったアンジェリカの頭上を、バチバチと音を立てて雷撃が駆け抜ける。その拍子に三つ編みにしていた片方の髪が焦げて、リボンを落としてはらりと解ける。焦げくさい匂いと、短くなってしまったそれ。直撃したら、自分がこうなっていたのだと思うとぞっとした。
純粋な雷など初めて感じたアンジェリカの足は完全に竦み、動けなくなる。それに男はニタリと笑みを浮かべ、アンジェリカに刃先を向けた。
「終わり、だぜ?」
「…ひ、」
「炎の1の魔法陣、展開。楚は炎撃、具現せよ。」
唐突に耳に届いた少女の声に、彼はハッとアンジェリカから距離をとる。二人の間に突然出現した赤い魔法陣に、アンジェリカは閉じようとしていた目を見開いた。
「贖うは地獄の業炎…発動!」
高い少女の声と同時に、魔法陣に描かれた4つの円から火柱が上がる。それらは上空で一つに纏まると、更に火の粉を辺りに撒き散らす。アンジェリカは自分の目の前だというのに感じない熱に、ただ呆然とその炎を見つめる事しか出来なかった。
咄嗟に距離をとっていた男は大きく舌打ちをして、長斧を自分の両肩に乗せながらアンジェリカとは全く違う方向を睨んだ。そこに見えた人影は、二つ。
「ダメかしら?クイラ。今は嫌われ者の討伐なんかしてる暇はパティにはないんだから!」
そう高らかに宣言しながら、二つの人影はアンジェリカと男…クイラと呼ばれた…の間に降り立った。どちらもアンジェリカとそう変わらない年頃の男女だ。
眼鏡をかけた大人しそうな少年と、フリフリの服を着て、腰に緑色のウサギのぬいぐるみをぶら下げた少女。先程の声からして、炎の魔法を使ったのは彼女だろう。クイラはギッと彼女を睨みあげる。
「パトリシア。アリス殺しの邪魔をするなとオレは怒っているぞ。」
「あらやだ!クイラってばまたそんな思い込みをしているのかしら?クイラがアリス
だって言ったら大抵はただのモブキャラだわ!だからその女の子も普通の子に決まってるのよだからどきなさい!パティは勇者だから、暴走してるあんたを見逃せないかしら!」
べらべらと一人でまくし立てて、パトリシアと呼ばれた少女はビシッとクイラを指差した。
やけに自信に満ちたその表情が気に食わなかったらしい。クイラはアンジェリカに向けていた殺意をパトリシアに向けて、ぐるりと長斧を遊ぶように回した。
「ええいうるさい!こいつは確かにアリスだ!邪魔するならお前も消すぞ!」
「大体アリスを殺すのは勇者であるパティなんだからクイラも黙ってなさいよ!」
武器を構えたクイラに、パトリシアも袖に仕込んでいたらしいナイフを数本、バッと指に挟んで構える。どうやら投げナイフを使うようだ。そう未だ地面に付した状態で確認して、アンジェリカはブルリと体を震わせた。
ここにいては、巻き込まれる。そして戦いが終わったら、今度こそ殺される。そうわかっていても、頭がどんなに警報を鳴らしても体はそれに倣ってはくれない。
度重なる恐怖にもう足は動かないようだ。あんなに自分を殺しても、「死」に慣れる事 なんてないのだ…こんなにも身近に迫ったそれに、やはり体は動かない。
ぎゅっと目を閉じると、自分よりもずっと怯えを含んだ声が、遠慮がちに二人の名前を呼んだ。それは大人しそうな眼鏡の少年のものらしく、彼はパトリシアの後ろに隠れるようにして細々と声を出した。
「ぱ、パティ、そんな事より女の子を…助けたほうが…」
「リィンやっといて!パティはクイラの相手をしてるから!」
「やっぱりそうなるんだよね…どうせ僕なんか…」
はぁぁ〜と長い息を吐いて、リィンと呼ばれた少年は、ナイフを投げ始めたパトリシアから離れてアンジェリカの元へ小走りに駆けた。
アンジェリカの手をひいて起こすと近くの木陰まで引っ張り、へにゃりと泣きそうな顔で笑う。
「えと、大丈夫ですか?」
「…大丈夫、みたいだ。」
「ぼ、僕、ハインリヒっていいます。リィンって呼ん…あ、厚かましいですねすみませんごめんなさい。」
「…アンジェリカ。」
あまりに自分を卑下してくるので、話している自分の方がなんだか申し訳なくなってきてポツリとそう名乗る。そのことにハインリヒも安心したらしい。ほぅっと笑って、アンジェリカに笑いかけた。
「アンジェリカ…じゃあアンジェでいい、のかな?」
「構わない。」
緩やかに首を振ると、バチィッと耳をつんざくような音が響いた。
どうやら、戦っている二人の魔法がぶつかったらしい。ごうごうと音を立てて、周りの葉を散らせて。そして響く金属音。
自分とは関係ない。だが初めて身近に感じる戦闘。命のやり取り。今までとは違う、一方的でないそれに、だがやはり恐怖しか感じない。この場所には、恐怖しかない。
「パティは強いから大丈夫だよ…それに、君がアリスだなんて知らないし。」
そう、優しく。何の迷いもなく。当然のように。名乗った名前とは全く違う『アリス』と呼ばれて、アンジェリカは弾かれるようにそこから逃げ出した。それは、ここに来てから何度も呼ばれた名前。この世界で殺されるべき存在の名前。
この世界の創造主にして破壊者である存在…アンジェリカを、示すもう一つの名前、だったから。
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