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戦闘の音が聞こえなくなった時には、アンジェリカの息は既に上がっていた。
太い木に手をついて、ゆっくりと息を整える。落ち着いて、ようやく一人になった空間でほぅ、と息をついて空を見上げて、すっかり晴れ渡った青空に目を細めた。
もう何も聞こえない。あの戦闘音はもちろん、風の吹かない今は自分の呼吸しか聞こえない。

「…アリス…」

ぽつり、この世界での自分の名前を呟く。
それは夢の世界を旅する少女の名前。確かに、ここは自分の世界らしいから間違いではないのだろうな、とアンジェリカは自嘲するように笑った。
アンジェリカの世界。
自分を殺す夢の世界。
目が覚めて広がる世界はどうなっているのだろう。この美しくも見える世界は、確かに自分に対して殺意しか向けてくれないのだ。そんなにも自分は自分を嫌っていたか、と思うも、きっと嫌っていた…とすぐに思考を止めた。 いつだって、人は自分を憎んでしまうものだ。
無力な自分に。
無意味な自分に。
上手く出来ない自分に。
気が付けばもう、すっかり治まってしまった足の震え。
それになんとなく、アンジェリカは貰った刀を僅かに抜いて、でもほとんど鞘に入れたまま強く足に押し付けた。じんわりと広がる痛みに、同じだけ安心感が広がる。まだ、ちゃんと自分は此処にいるのだと。

ガサリ。
聞こえた物音に、ハッと体を強ばらせる。見ればそこには、低く唸る女のような体を持つ魔物が一体。うねるような髪と、地面に後をつける蛇のような下半身。虚ろな目がアンジェリカを確認すると同時に憎悪を写すのにごくり、と唾を飲み込んで、じりりと後退りをする。
だがそれと同じだけ近寄ってくる魔物に、これは逃げようと背中を見せれば襲われると、ひたすらに魔物を見つめた。それが今のアンジェリカに出来る、精一杯の防衛手段だ。なるべく目をそらさないように、だが少しずつ後ろに下がっていく。
逃げなければ。だが、どこに逃げればいい?
ずっと走れば、パトリシアや自分を殺そうとしたクイラ達のもとに辿り着くだろう。しかし、パトリシアは兎も角クイラという男は再びアンジェリカに長斧を向けるに決まっている。あのハインリヒという少年も、アンジェリカがアリスだとわかっている。
状況は何も変わらない。
アンジェリカが殺される状況は、何も。

「…っ」

ガッと伸びてきた魔物の髪が、アンジェリカの肩を文字通り貫いた。瞬間走る痛みに、アンジェリカは反射的に刀を振り回して髪を引き抜く。途端に溢れ出した血に、肩を押さえて顔をしかめた。

『コロス…アリス…』

低く、地を這うような声が鼓膜を震わせる。
全てを呪うような声に、ぞわりと全身が粟立つのがわかった。それと同時に、魔物の髪から滴り落ちる己の血が目に入って、頭が冷静になっていく。

「なぁ、この世界自体がわたしなら、君もわたしなのか?」

再び振り下ろされた爪を今度は刀で防ぐも、髪は再びアンジェリカの体を貫いた。
抜いたら、血が出る。そう判断して、そのまま爪と鞘でギチギチと音を立てながら、アンジェリカはそう魔物に問いかけてみる。
ジーンは、ここはアンジェリカの世界だと言った。存在するもの全てがアンジェリカだと。
ならば、魔物もそうなのか?これもアンジェリカ自身なのだろうか。
そう問いかけるが、魔物は相変わらず低く唸り、言葉を繰り返すだけだ。

『アリス…アタシ…コロス…』
「…どうして、わたしは此処にいるんだろうな。こんな、自分を殺すだけの世界なんかに。」

全部自分なら、結局はアンジェリカを殺すのも自分。
反撃して相手を殺しても、それは自分。
どちらにせよ傷つくのは自分自身だ。
全てが『自分』という存在。
これが夢ならなんて最低な悪夢なのだろう。
痛覚すらリアルな夢なんて最悪だ。
ひたすらに殺意を向けられて殺される。それを振り払うためにもう一人の自分を殺す。
自分を殺すだけの、夢、なんて。

「なんのために此処に来て、なんのために殺されるのだろうな。わたしは…」

ずぶりと、鞘を弾いて爪がアンジェリカの腕に食い込む。肩からの血も止まらない。きっと、爪や髪を引き抜いたらまた沢山の血が流れるのだろう。
普通に生きていたはずなのに。彼女を失って、切り裂き魔という非現実的な存在には出会ってしまったけれど。
アンジェリカは、何も変わらずに生きていたはずなのにと、笑った。

『コロセバイイ。』

それはやけに、耳に響いた。
地を這うような声。低く唸る魔物の声。
殺せばいい。
そう紡いだ声は、よく聞けば確かに、自分の声そっくりだった。顔と顔が触れ合いそうな至近距離で、ずぶずぶと腕に爪を食い込ませながら言葉は紡がれていく。

『アナタ…キラウ、アタシコロセバイイ。アナタ…コロセ。アタシイラナイ。コロス…コロス。アナタイラナイ。』

だって、どちらもわたしでしょう?
勢い良く、貫いていた物を引き抜かれ、更に腹を引き裂かれる。溢れ出した血に目眩がして…嗚呼、これで死んだのは64回目か…なんて、暢気に数えた。ただの液体として飛び散る己のそれは、だがどうしてだろう。なんだかとても綺麗に見えて…そして吐きそうな位の嫌悪感を感じた。

「わたしはやっぱり、自分を好きになんてなれないな…」

こんな夢しか見れない自分なんか。
彼女に何も出来なかった自分なんか。
自分の血さえ愛せない自分なんか。
嫌い。
大嫌いだ。
…なら、攻撃してみようか。
どうせこの魔物も自分なのだ。
どうせ死ぬのは、自分なのだ。
そうぼんやりと思って、傾いていく景色の中、刀を構える。相変わらず鞘からは抜けない。更に今は、随分血が抜けてしまったのか上手く力が入らない。それでも、引き裂かれた箇所が痛くて疼いてたまらないから。それを振り払うために、アンジェリカは、刀を振り上げた。
全部消えて無くなればいい。わたしも君もあなたもわたしも、みんなみんな消えて無くなってしまえばいい。もう全部いらない、いらないよ。
視界を覆ったのは、黒だった。
バサリ、急いで来たのか、はためいた黒はやけに鮮明に映って、アンジェリカは刀を振り下ろした反動の両腕の痺れにそれを落とした。彼の腕に当たっていた刀はカタンと音を立てて地面に落ちる。

「…あ。」

それを追うように座り込んだアンジェリカの視線もそこに向かう。あっけない音をたてて落ちた凶器。たった今、自分が相手に向けた殺意を。

「あ、わた、わたし…っあ、あああ、あ。」

なんで。どうして。なんでそんな。こんなものを持っているの。こんなものを向けるの。そんなの、そんなの他と同じじゃないか。
途切れ途切れの叫び声を上げて、アンジェリカはぐしゃりと頭を抱える。そんな彼女を一瞥して、間に立っていた彼は自分に突き刺さった魔物の爪を引き抜くように、魔物に向けていた剣でそれを突き飛ばした。
瞬時に彼を包んだ淡い光に。
黒いその姿に。
アンジェリカは、泣きそうに歪んだ顔をそちらに向けて、ポツリと彼の名前を呼んだ。

「…ジーン…?」

それが合図のように、ジーンは駆け出した。

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