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…どうしたの?アン、また泣いてるの?
…泣いてなんかいない。そんなに弱い女の子じゃないぞ。
…強がらなくたっていいのに…そうだ、ねぇアン。お話ししてあげましょうか。
…何の話だ?
…自分の世界を旅するお話し。


「…ひ…ら…」

ぼんやり、戻ってきた意識に、アンジェリカは小さく目を開けた。
まず映ったのは灰色の空。重苦しいそれは、もうすぐ天気が崩れる事を知らせている。数度瞬きをして、体に触れる何か柔らかなそれを感じてゆっくりと体を起こす。そうしてしっかりと確認すれば、自分がベッドの上にいた事がわかった。
いつの間にこんな場所で寝たのだろう…そうぼんやりと思いながら辺りを見て、思わずゴクリと息を飲む。
アンジェリカが眠るベッドは確かに豪華でそれでいて清楚な印象を受けるにも関わらず、それが在るこの場所は瓦礫の山だったのだ。
人形、玩具、本、花壇に家具に絵にカーテン、家の壁。
どれも破けたり壊れたりしており、ボロボロになった色んなものがそこに乱雑に積み上げられている。危ういバランスで乗っているだけのベッドに寒気を覚えながら、灰色の空の下の瓦礫の山で、アンジェリカは起き上った。
そこに、ジーンの姿は無い。
先程見た夢の彼女もいない。
いるのはアンジェリカただ一人だけ。
こんな灰色で暗くて、まるで終焉のような場所に、アンジェリカ一人だけ。
瓦礫を崩さないようにそっとベッドから降りるが、足が触れたたけでカラカラと音を立ててそれは崩れてしまう。

「…なんだ、ここは…」

見たくない、と思った。
何故だかわからないが、見たくないと。
今すぐここから逃げ出したいと。
反射的にそう思って、これは夢だと強く思いこもうとする。そんなのは気休めだとわかっているが、この場所に居るのだという事実から目をそらしたかった。
ここには居たくない。
早くここから逃げ出したい。
早く。早く。早く。
ここにあるのは、ここにいるのは、きっと、そう、きっと。とても、怖いものだから。

カラカラカラカラ、何かが近付いてくるような音がする。反射的に近くにあった桜月を持つと、音の主はそのままピタリと止まった。
そのまま動く気配を感じない。人だろうか、それとも何かの残骸だろうか。どちらにしろ、確認しなければわからない。
アンジェリカは深く深呼吸をして、ぐっと桜月を握りしめる。すぐにそれで攻撃できるように。すぐにそれで守れるように。強く握って、勢いよく振り返る。
それは、ボロボロになった車椅子だった。
それは、アンジェリカと同じくらいの人間が使うような、どこにでもある車椅子だった。
見覚えのある、車椅子だった。
それはゆっくりと、コマ送りのようにゆっくりとしたスピードで、だが確実にぐらりと傾いて。誰もいない車椅子は、重力に逆らうことも出来ずに下へと落ちて行く。

「…っひい…!」

それには誰も座ってなんかいないのに。
無人の、ボロボロになった車椅子なのに。
まるで彼女が乗っているような気がして、思わず腕を伸ばす。あっさりと、車椅子を追うようにして落ちていく。

だが、ぎゅっと目を閉じて衝撃に耐えようとすれば、急にふわりとした浮遊感を感じて…閉じた目の裏が、明るく輝いた。
恐る恐る目を開けば、目の前の光景はガラリと変わっていた。
灰色の空は変わらない。それなのに瓦礫の山は玩具の山になり、人形達がパレードのように楽器で音と光を散らしながら行進しているのだ。陽気な音楽はまるで玩具箱のようで、アンジェリカの周りをお菓子が埋め尽くして行く。
可愛らしい音楽。おいしそうな甘いお菓子の匂い。くるくると回るメリーゴーランドのような、きらきらとした繰り返しの行進。
どういう事なのか頭がついていかない。瓦礫だったはずのここは、まるで玩具箱の底のようだ。
はっと視線を上げると、道の向こうに少年が、見えた。ユーリウスよりも幼いだろうその少年はアンジェリカを見つめて、何をするでもなく微笑んでいる。
ただ、微笑んでいるだけ。
それだけなのに、ぞっと悪寒が背筋を走って、アンジェリカはがっしりと桜月を握りしめる。
どうして。なにが。なにが起こっているの。
困惑していれば、くすくす、笑い声がした。
それはつい最近聞いたばかりの声だ。
まだ記憶に新しい少女の声だ。
声がする方を向いて、そうしてそこに立っていた人物を見る。
赤毛と黄金の瞳はどこかアンジェリカを思わせる。だが彼女が絶対に浮かべないであろう歪んだ笑顔を貼り付ける彼女を。
背中に生えた、大きな白い翼。布地の少ない服から生えたそれは神々しく、辺りに舞う光…まるで妖精のようなそれとは違う力を感じさせる彼女を。
そして、翼と手足とを美しい鎖に繋がれていた彼女は、にっこりと。
天使は、愉しそうににっこりと笑った。

「こんにちは、アリス。わたしと一緒に遊びましょう?」





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