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プリズムという人がいた。
アンジェリカの世界の中に、プリズムという名の女性が存在していた。赤く長い髪。アンジェリカと同じ男みたいな口調のスラリと背の高い女性。
それは、誰かを守りたいと願う心だった。柊を愛して、守りたいと願った感情だった。アンジェリカにとって、たぶん、とても大切な感情だった。
「君はいつもボロボロだね。」
そう声をかけたのはジーンだ。同じ騎士学校に通っていて、きっと同じような系列の感情だからとそれなりに交流があった。
その時は知るはずもなかったが、彼女は本当にアンジェリカそっくりに笑う。
「ああ、ジーンか。いやなに、誰かを守るにはまず自分を守らねばならないからな。自己防衛は他にいるのだろうが、私も他の感情を守ろうと思ったのだよ。」
「それでそんな…もう、ほら、回復するからこっちに来て。」
そう誇らしげに傷を見せるプリズムに、なんでこの感情を女子に割り振ったのかなあとまだ見ぬアリスを思った。アリスには出会わないことが一番だが、もし出会ってしまったらぜひ聞いてみたい。たぶん、アリスも知らないだろうけど。
ぽう、と淡く光る手で回復魔法をかけてやれば、二人のやり取りを少し離れて見ていたシェリラがうわあ、と声をあげた。
「お兄様、いつの間に治癒術をお覚えになりましたの?」
「割と最近だよ。まだまだだけど、これくらいならもう治せるようになったんだ。」
「素晴らしいですわ、お兄様。私も何かそういったこと、覚えてみましょうか。」
彼女のために覚えたんだ、とは言わなかった。いくら何かを好きだと思うことが役目であっても、それを素直に言って回りたいとは思わなかったからだ。
きっとそれは自分の役目ではないのかもしれない。ただ思うだけ。そうなのだと。
それでもわかる人にはわかるらしく、治癒術を覚えてしばらくしてからクイラに笑われたなあとジーンは苦笑いする。彼はああ見えてとても敏かった。
「アリスはとても強いのでしょう?なら、せめてもっと早く唱えられるようにならなきゃダメですよね…」
「そんなことはないさ、シェル。」
「そうさ。それに私はアリスを殺すために強くなるのではないよ。」
プリズムの返答にシェリラがえっと顔を上げる。ジーンも何を言い出すのだとプリズムを見た。
アリスを殺すことが役目のはずだというのに、彼女は相変わらず意志の強い瞳でそれを否定した。
「言っただろう。誰かを守るにはまず自分を守れるようにならねばならない。だから私は、アリスだって守ってみせるさ。」
そう笑ってみた彼女は、いつもよりもずっと輝いて見えていた。きっと、アリスにとっても大切な気持ちだったのだと思う。だからこんなにもまぶしいのだと思う。
でも、もし。
本当にそんな、誰も殺さなくてもハッピーエンドが迎えられるなら。大好きなものを何もあきらめなくていい方法があるなら。
それは、本当に幸せだと思った。
「…なら俺も、守ってみようかな。それはなんだか…そうして帰れるなら、一番だし。」
「ジーンも賛同してくれるか!よかった、うれしいよ。一緒にアリスが来たら守って、そして帰してあげよう…まあ、来ないのが一番だがな。」
嬉しそうにジーンの手を握るプリズムに、ジーンも思わずはにかむ。
もしももしも。不確定でまずありえない、そんな夢物語ではあったけれど。でも、彼女がいるならきっとアリスはもう一度立ち上がれると思えたし、きっとこんな場所に迷い込むこともなかっただろうと思うことができた。
柊が。アンジェリカの守りたかった少女が。桜月柊が死んでしまうまでは。本当に。
「やはり、ダメだな…相手に依存しているようなものだから、いなくなったら真っ先に…か。ふふっ」
「なんで…」
呆然と、ジーンはプリズムを見た。
美しい女性。大切な女性。憧れた女性。そんな当たり前だった姿を失いつつある異形の姿を。
彼女の鮮やかな赤の髪は暗く淀んで、強い意志を宿していた瞳はこぼれ落ちそうに見開かれて白目の部分が真っ黒に染まっている。ガラガラに枯れた声はおぞましさすら感じさせて、すらりとした体躯は内側から突き出した骨でひしゃげてしまっている。
もう、人じゃない。
もう、彼女じゃない。
もう、必要ない。
もう、守れない。
「せめて、出会いたかったよ…アリス。」
「まっ、て。なんで、なんで君が、」
「アリス…君の中には、素敵なものがたくさん…たくさんあるんだ…嫌わないで、もっとよく、見て。切り捨ててしまう前に、もう一度、私たち、を。」
「プリズム!」
途切れ途切れにつぶやいたプリズムの体がどんどんどんどんどんどんどんどん変わっていく。魔物になる。拒絶された末路をたどる。大切だったはずの気持ちすら簡単に捨てて、アリスは、アリスは、アリスは。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
悲鳴があがる。ジーンのものではない。もっと枯れて擦れてしゃがれて。おぞましくて気味が悪くて胃がぐるぐるしそうなくらい不快な悲鳴。魔物の悲鳴。
少し遅れて巨躯が地面に倒れる音。ジーンがだるそうに顔を上げれば、そこに立っていたのはクイラだった。
もう動かなくなったプリズムだったものの前に立って、クイラは長斧についた体液を払うように振るう。
クイラがプリズムを殺したのだとすぐにわかった。わかった。わかってしまった。
「なんで…」
「そんなの、アリスが否定したからに決まっているだろう、とオレは至極冷静に返すぞ。」
暴れられたら困るし、そのための場所に所属していたんだろう、とクイラは不思議そうに顔をしかめる。
そうだ。騎士団はそういう場所だった。わかってた。でも、プリズムを殺さなきゃいけないなんてことは、わからなかった。
「オレたちは不安定だ。感情なんてその場その場で変わるものが、とりあえずここで形を持って生きているだけだ。そんなもの、お前ならわかるだろう、ジーン。オレはそう問いかけるぞ。」
「…うん。そう…だね。そうだね…」
知ってた。知ってたんだ。それでも知らないでいたかったんだ。
「…アリスを、守る。君を消したアリスを…」
そんなことできるもんかと思った。いくらプリズムが願っていたことで、そうしようと二人で約束したことだったとしても、できるとは思えなかった。
でもきっと好きになるとも思っていた。それが彼だから。好きになる何かには、もちろん、自分だって入れるはずだから。入れたくないって思ってるから、クイラがいるのかもしれないけれど。
それからあまり時間が経たないうちにアリスがきた。
騎士団をやめてアリスを探して、一番にその姿を見てやろうと走った。そしてみつけたときは、彼女と同じ長く赤い髪に息をのんだ。そっくりだったんだなと悲しくなった。本当はずっと、そんなことを思っていた。
怯える小さな少女。無力で、非力で、か弱いただの少女。
この少女を守れば、代わりにすれば、プリズムは帰ってくるのだろうか。また笑うのだろうか。約束を守って、そしたら、本当にハッピーエンドに、なるだろうか。
「君を、守らせてくれ。アンジェリカ。」
そんなことを、思っていたんだ。
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