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とある森の中。
もっと詳しく言うなら、パトリシアがアンジェリカと一番最初に出会ったあの森の中。
アンジェリカがアリスになったあの時。あの日。その後何日もずっと無言で歩き続けたパトリシアとハイリヒはその森へと辿り着いていた。
そういえば、確かにこの場所でクイラはアンジェリカを『アリス』と呼んでいた。
自分を嫌う、だなんて自己意識の中で最も悪らしい感情の彼とパトリシアは、意外にもよく出会っていた。その都度パトリシアはクイラに食ってかかっていたので、その時も彼の言うことなど信じなくていいと思っていた。
だから、それが真実だなんて思えない。思えなかった。
思えないのに、それは真実だ。

「…リィンは、知ってたのかしら。」

ぽつり。
数日ぶりに聞いたパトリシアの声。
それに答えていいものかと長い時間考えて…やがて、ハインリヒはか細く答えた。

「…うん。」

その言葉に、カッと頭に血がのぼるのをパトリシアは感じた。ダンと勢い良く彼につかみかかり木に押し付け、息がかかるくらいに近くで怒鳴り散らす。

「なんで言わなかったの!知ってたらその時に殺してやったのに!」
「だ、だって、パティが最初から好意的だったから…」
「知らなかったからに決まってるかしら!」
「それに、信じてなんてくれないって…」
「パティの意志を勝手に決めないで!」
「だって殺したくなかったから!」

びくりと体が跳ねる。
ハインリヒの大声を聞くのは初めてだったからだ。
ハインリヒも驚いたようでせわしなく目線を動かしていたが、やがて泣きそうになりながらも唇噛みしめて言葉を紡ぎ出した。

「殺したくなんか、ないから。だってパティも知ってるでしょ、アンジェは悪い子じゃないよ、殺す必要なんか…」
「本当に後ろ向き。逃げるのね。パティ達の役目を放棄するつもりなのかしら?」
「…逃げてるのはパティだよ。」

小さな呟きに、キッとパトリシアがハインリヒを睨む。ハインリヒはそれにサッと目をそらしたが、それでも言葉を紡ぐのは止めなかった。

「た、確かにパティのそれは正しいよ。でも、頑張らずに殺すなんて、そっちの方が逃げてるよ…パティは“役目”として前を向いてるけど、向いてる方向は後ろじゃないか。」
「なっ…!?」

カァッと頭に血が上るのを感じる。
先程よりももっと冷たい、だが衝撃的な感覚。自分達は一つの感情で作られているはずなのに、それを否定するような言葉。それは信じられなかったし認めたくもないから、パトリシアは反射的に彼の頬を打った。
甲高い音とひりつく痛みとが響いて、パトリシアはそのまま後ろを向いて走り出した。

「なんなのかしら、なんなのかしら…っ!」

ずんずんと一人で歩いて、パトリシアはただそれだけを繰り返し呟いた。
何もかもが苛立たしく見えて、この大地ごと踏みにじってやりたい気分だ。そんなこと出来ないけれど、出来ないからこそ余計に苛立ちが募る。

「もうリィンなんか知らないかしら!大体、パティのどこが後ろを向いてるっていうのかしら…!」
〈マスター…〉

目に見えて荒れている彼女に落ち着いて、と言おうとした自分の人形の声で、パトリシアはぴたりと足を止めた。
それから渾身の力を込めて近くの木を蹴りつける。僅かに枝を揺らしたそれに、パトリシアは緩く首を振った。

「…何も言わないで。あんたが言ったら、それはパティが『なれない』事になっちゃうから。」

人形はなれなかった自分。どう頑張ってもたどり着けない理想。願い。妖精。何にもなれなくて、何かになりたくて、そうしてあがいていたもの。
チャックが気付いてなれてしまったら、それはもう彼女が永遠に辿り着けない事になってしまう。そう無言で訴えた彼女に、チャックも沈黙した。
ガサリ、木々を分ける音がする。
なんだとパトリシアが顔を上げると、ちょうどそこから見知った顔が出て来るところだった。

「クイラ…?」

出て来たのはクイラだ。
何か怯えるような焦った表情で、彼はパトリシアについと視線を向ける。
クイラとパティは、やはりあまり仲が良いわけではない。アリスが来る以前は、クイラが“悪”であったのだ。
全てを嫌いだと拒絶し騒ぎ存在する姿は、痛々しくも悪しき姿に見えたから。自称勇者を名乗る彼女に体よく絡まれるのはもはや必然だった。

「あんた、なんでここに…」
「殺さなきゃ。」

いろいろと気まずいものを抱えながらも問いたパトリシアに、クイラは一言だけ言葉を返す。
なんだと首を傾げれば、クイラは焦った表情のまま早口にまくし立て始める。

「殺さなきゃいけないんだ。今すぐ。全部全部。じゃないといけない。オレが殺さなきゃいけないんだと、オレはオレに叫んでいる。」
「…なんで。どうしてそんなに執着するのかしら。」
「アリスを殺すのはオレだからだ。」
「役目だから?」
「役目じゃない。これは義務だ。オレだけの。だから殺す。」

ああ、なんて。
なんて真っ直ぐで雁字搦めで愚かで必死な姿だろうか。

「もう、誰にも譲らない。パトリシア、お前にもだ。」

突きつけられた刃に、パトリシアは自分の頭がやけに冷静になっていくのを感じた。





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