5
この世界に、陸地は存在しない。
ずっと昔にこの海の中に沈んでしまったのだ。
この空と海しか存在しない世界で、人々は船の上という地面を作り上げて生活している。
ぼんやりと窓から見える空の青を眺めながら、彼は思った。
どうしてこの海の底に、人々も沈んではくれなかったのかと。
どうして未だに自分の世界は終わらないのだろうかと。
ゆっくりと、隣から聞こえてくる寝息の主を見る。
胡座をかいたまま眠る彼…アルヴァートはこの船の船長らしい。
ここが所謂海賊船で、彼が自分を拾ったのだという話は、様子を見に来た様々な話好きな船員達から聞いていた。
だからこそ不思議でたまらない。
自分なんかを拾った意味も、その価値も。
ふと、視線をずらせば彼の右の太ももにホルダーに入った銃をが見えた。
細やかな装飾の為されたそれは盗品なのか自前なのか、それはわからないがそれなりに高価そうである。
少年はゆっくりとそれをホルダーから抜き取って、そのずっしりとした重みを無表情に見下ろす。
そして11歳の己には重くて仕方ないそれを…そっと、アルヴァートに向けてみた。
どうせ、死ぬのなら、と。
「ん…」
ぱちり、と、そのタイミングでアルヴァートはぼんやりと瞼を持ち上げる。
そのまま流れるように少年に目を向けて、ちらりと自分の太もものホルダーを見る。
すぐにそれが自分の銃だとわかって、アルヴァートはまだ眠そうな顔でひょいとそれを取り上げた。
怒られるとぎゅっと目を瞑っていた少年の手から簡単に離れたそれを見回してカチャカチャと弄って、フッと笑う。
「ほら、ちゃんと安全装置外さなきゃ。じゃなきゃ撃てるわけねぇだろ。」
あっさりと再び少年の手に握らされた銃に、怯えたようにアルヴァートを見上げる。
しかし彼は、相変わらず胡座をかいたままの姿勢で、ゴツリと自分から銃口に額を当ててくる。
撃てないと信じ切っているのか、それとも撃たれても構わないと思っているのか。
微塵も恐怖を感じていないとでも言うような笑顔を向けるアルヴァートに、逆に少年は自分の手が震えるのがわかった。
指先を引っ掛けたまま数度呼吸を繰り返し、撃ってしまえば楽になれるんだと思っても…それでもやはり出来ないと固く目を瞑る。
「………っ」
「はい、時間切れ。」
「…ぁ…」
「お前には似合わねぇよ、銃なんか。」
ひょいと、渡された時と同じくらいあっさりと取り上げられて、だがどこか安心したように俯く。
自分は何をやっているんだろう…と一人俯く少年に、アルヴァートはそれをむぎゅっと押し付けた。
少しくたびれた、柔らかな布の感触…パーツごとをボタンで縫い付けられた、犬のぬいぐるみを。
「うん、こっちのが似合う。」
ぬいぐるみと少年の顔とを並べて、ニカッと笑う。
それがあまりにも嬉しそうに映って、彼は困ったようにへにゃりと眉尻を下げた。
「そいつはクラークってんだ。俺がずーっと昔から持ってるやつ。朝から持ってて良かったよ。それ、お前にやろうと思ってたんだ。可愛いだろ?」
「…」
受け取って、パタパタと腕や耳を動かしてみる。クラークを傾けて、自分の首も傾けてみる。
…どうやら気に入ったようだ。
「…ラルド。」
「え?」
「名前。ラルド。」
ポツリ、クラークを見つめながらだが確実に自分に向けられた言葉に、アルヴァートはばあぁっと笑顔を浮かべた。
嬉しくなって、込み上げてくるその感情を表すように少年の…ラルドの頭を帽子ごと撫でる。
「…!そうか!ラルドっていうんだな!いい名前じゃねぇか!あ、じゃあ改めて俺はアルヴァート。好きなように呼んでいいぞ?」
しかしラルドはぷいと横を向いて、クラークを抱き締めたまま再びうずくまった。
もう会話は終了とでも言わんばかりの態度だが、アルヴァートは気にせず頭を撫で続ける。
そのうちそれがウザったく感じて来たのだろうか。
ラルドは少し体をずらしてサンドイッチの乗った皿に目を向けた。
「…ご飯、食べなよ。」
「ラルドが食べなきゃ嫌だ。」
「あんたが食べたら食べる。」
「本当か?」
「うん…むぐ。」
ぎゅっと口にサンドイッチを押し込められて、ラルドは不満そうにアルヴァートを見上げる。
だがアルヴァートはにこにこと笑って彼が咀嚼するのを待っているらしく、押し込めた手を離す事はしない。
仕方なくもすりと一口噛みちぎってゆっくりとした動作で飲み込めば、彼はようやく満足だとその手を離した。
「よし、なら行くぞ。」
離してすぐ、ひょいとラルドを片手で持ち上げる。
彼は知らないだろうが、最初に彼を拾った時の持ち方だ。
サンドイッチの皿を持ってそのままズカズカと音を立てて廊下を歩いて、アルヴァートは一つの扉をバァンと音を立てて足で開けた。
「おらライノルズ!俺らの肉も用意しろよ!?」
「あらアヴァン坊や、案外早かったね。」
どうやら食堂らしいそこでまだ食事の準備中だったライノルズにそう言い放ち、クスクスと笑われながらもそのまま船長室へと向かったのだった。