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幸せなんて、自分の手の届かない場所にあるのだと思っていた。
深海を生きる魚が太陽を知らないように、自分の知らない場所にあるのだと。
小綺麗な服を纏っても、鎖に繋がれたまま生きていたその少年は常にそんな事を考えていた。
自分の背中にあるという痣。
幸せに導くやらなんやらと言われ、目の前でニタニタといやらしい笑みを浮かべる男に買われたのは数年前。
鎖に繋がれたままの彼を、男は満足そうに見つめる。
「幸福の子供、だなんて本当に洒落た名前だ。こうして傍に置いておくだけでこんなにも物事が上手くいくなんて。」
世界なんて、早く腐り落ちてしまえばいいのに。
誰かの幸福だとするなら、自分は。
自分はどうやって幸せになればいい?
音が、聞こえ無かった。
いや、聞こえていたのかもしれない。
だがそれは彼の中では音として処理されなかったらしい。
音も無く、だが高らかに。
目の前で笑っていた男の首が、跳ねた。
「…ぇ。」
次に見えたのは、その向こうで剣を持った少女の姿だった。
黒い軍服を纏った、自分とそう変わらないであろう年の黒い少女。
彼女は無表情に落ちる首を眺めてから、ようやく彼に気付いたと顔を上げた。
「…あら。すみません、子供がいるとは思わなかったので。」
「…っ」
「どうしましょうか。この所雑用ばかりで退屈でしたし、私と鬼ごっこでもしますか?」
スラリと自分に向けられた刃はとても怖いと感じたが、だが同時に綺麗だと思った。
彼女の黒には赤がよく映えて、光る刃は彼女を飾るよいだとも。
呆然と彼女を見上げていれば、彼女は少しだけ眉を潜めて彼を睨んだ。
「…少し、伝わりにくかったですか?背中を向けろと言っているんです。」
言われて、ほとんど反射的に背中を向ける。
自分の生き方を縛るそれを見せる事には抵抗があったけれど、素直に聞かなければならない、とこの数年で彼の身に嫌という程染み付いていたのだ。
そんな彼に、少女は一瞬の躊躇いも無くその背中を切りつけた。
堪えきれずに上がった悲鳴は、まるで自分の物ではないんじゃないかと思う程に悲痛で大きく、彼は無意識にボトボトと涙を零す。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い痛痛い痛いい痛痛痛いい痛い痛い痛い痛い痛い痛痛いい痛いい痛痛痛痛痛痛痛…
何が何だか理解出来ない。
その傷をなぞるように触れた冷たい手に体が跳ねる。
だが、それが応急処置を施しているのだと気付いて、彼は意味がわからないと首を振った。
彼女は淡々と言葉を落とす。
「お前、名前は?」
「あ、ぅう…っ…ぐ…し…知らない。」
「そうですか。では“オシリス”というのはどうでしょう。昔、幾つもの船を沈めた海賊の船の名前。」
「オ、シリス…?」
この少女が言っている言葉を、彼は…オシリスは半分も理解出来ていない。
だがそんな事はお構い無しに少女は彼を起こし、その手に不釣り合いな銃を乗せた。
「さあ、オシリス。あなたを縛る翼はもうもがれてしまいましたよ。これからあなたが何をしようがあなたの自由です…これからは“ただの子供”として幸せになるんですね。」
それが怖いなら撃てという意味だったのかもしれない。
だがオシリスは彼女の手が離れると同時に銃をゴトリと落とした。
はたはたと零れる涙は、まだ痛む背中の傷に対する物だけではない。
まるで、何かから解放された気がした。