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ガシャン、と、彼の背後で大きな音が鳴った。
フォルキシアが再びオシリスを叩いて、彼を横に突き飛ばしたのだ。
思わず振り返ったラルドに、彼は先程オシリスに向けたのとは全く違う朗らかな笑みを浮かべる。
「さあラルドくん。幸福の子供。君が幸せになれる場所は、こっちだ。」
す、と差し出された手。
差し出されたというより、彼を捕らえようと延ばされたそれは、だがパチンと音を立てただけでラルドに届く事は無かった。
涙を流したまま、ラルドがそれを払いのけたのだ。
フォルキシアの元に来てからはずっとおとなしかった彼の初めてともとれる行動に、横で見ていたオシリスも目を見開く。
「…っれは、幸福なんかじゃ…ない…」
やがて吐き出された言葉は小さく、とても弱々しい。
だが、それでも彼は必死に言葉を紡いでいく。
「一人じゃ、上手く…喋れないし、すぐに人の目が、怖くなる。幸福の子供だとか名前ばっかで色んな人を傷付けた。色んな人を殺した。でも…でもあいつは、そんな“おれ”で居ていいよって、言ったんだ。」
シュルリ、首についていたリボンを解く。
彼の身を包んでいた淡い紫の服を、ぷちぷちとボタンを取ってばさりと脱ぎ捨てる。
服と一緒に、今まで彼にまとわりついていた不安やら恐怖やらも脱ぎ捨てるように、彼は強く強く言葉を発する。
言葉にする。
「おれなんかの言葉で幸せだよって、何度でも言うし、何度でも言えるくらい傍にいるよって…そうなんだ。おれは、やっぱり“幸福”なんかじゃ、ない。」
ばさり、被ったいつもの青いワンピース。
大きなリボンをつけていた帽子も脱いで、いつもの青い帽子を被る。
「おれは、おれなんだ。」
そして真っ直ぐに、フォルキシアを見た。
自分を飼おうとする世界を見た。
怯む事なく。
きちんと。
真っ直ぐに。
「おれは、ただのラルドだから。」
そうしてゆっくりと、彼は窓に腰掛ける。
ぎゅっと帽子を被って、フォルキシアやオシリスを見て、自分の言葉を声にする。
完全に窓に乗った彼がやろうとした事に気付いて、フォルキシアは慌ててラルドに腕を伸ばした。
しかし、ラルドはもう彼を見ていない。
聞こえたのだ。
彼に気付いて彼の名前を呼ぶ、あのとても愛しい声が。
大丈夫。今、行くよ。
「だから、幸福だとかそんなふうに、おれを呼ぶな。」
それだけを言って、ラルドはそのまま倒れるように窓から飛び降りた。
フォルキシアの腕は、ギリギリ帽子から伸びるリボンを掠めただけで届かない。
内臓を持ち上げる、あの不快な浮遊感。
だが不思議と怖く無い。
くるりと無理やり体を反転させれば、駆け寄ってくる彼が見える。
ラルドは帽子を押さえながらも目一杯腕を開いて、精一杯に彼の名前を呼んだ。
「っアルヴァート!」
「ラルド!」
そして、アルヴァートはがっしりと、落ちてきたラルドを抱き止めた。
ふわりと感じる久しぶりの温もりに、自然と涙が浮かぶ。
ラルドはぎゅっとアルヴァートの服を握ると耐えきれないとばかりにボロボロと涙をと一緒に言葉を吐き出した。。
「…っめんなさい、ごめんなさい…!大嫌いなんて嘘だ、おれ…っ!」
「…ラルド。」
「おれ、やっぱりあんたと…アルヴァート達と一緒にいたい…!」
アルヴァートは笑ってラルドの頭を撫で、いつものようにぎゅっと彼を抱き締める。
いつものように彼を抱き締めて彼に笑いかけて、そしていつもと違う、彼も弱っていたとでも伝えるかのように満ち足りた声で、彼にそっと囁いた。
「…ああ。じゃあ、もう少しだけ…俺と一緒にいてくれるか?」
「うん…!」
幸せなんて、自分の手の届かない場所にあるのだと思っていた。
深海を生きる魚が太陽を知らないように、自分の知らない場所にあるのだと。
そう、思っていたんだ。