「絢瀬」
「わっ」
声をかけられて、慌てて立ち上がる。別に立ち上がる必要なんてない。もちろんとっくに魔導書は姿を隠してるから、誰かに見られる心配もないので、ただ意味もなくころりと小さな竜が背中から転がっただけだ。
そもそも今の声が誰か、なんて、聞き慣れてしまったから振り返らなくてもわかる。慌てて転がった小さな竜を抱き起こしてあげながら、私はその人に振り返った。
振り返った先に人間が二人いたのは少しだけ予想外だったけれど。お友達と一緒に私に声をかけてきたのは、直接会っていない昨日ですら、ものすごく私の調子を狂わせに狂わせた、秋也先輩だった。
「先輩たち、こんにちは」
「こんにちは」
挨拶をすれば、少しだけ目を細める。表情がほとんど動かない先輩だけど、この仕草が先輩なりの笑顔であることはもう知っていた。
「こんにちは、陽葵チャン。その子と遊んでたの?」
「こんにちは、天海先輩。……あ、」
続いてもう一人。秋也先輩のお友達の天海睦月先輩に挨拶を返す。彼は先輩の友達で、たまに一緒にいるところに会うので、それなりに顔見知りだ。少し軽い人だなと思う時もあるけれど、基本的に先輩の友達をやっているだけあって面倒見はいい。先輩の甘やかし癖も適当に受け流しているし、その扱い方はこっそり尊敬している。
ぺこりと軽くお辞儀をしようとして、抱きかかえていた小さな竜がするりと腕の中から飛び降りてしまった。まとっていた静電気もなくなっていたし、もう満足したのだろう。そのままさっさと植込みの中に消えてしまったのを見て、天海先輩と目を見合わせて苦笑した。
「オレ達が来たからびっくりしちゃったのかな。ごめんね」
「いえ、全然。みんな気まぐれですから」
じゃれついていた手帚をカバンの中にしまうふりをして魔法を解除する。そっと空気に溶けていくそれは、誰も見ないまま消えたはずだ。
秋也先輩がそっと手を伸ばしてきたので、私も手を差し出す。いつものように、頭を撫でる代わりに手の甲を撫でてきたのは、きっと慰めるためなのだろう。いや、やたらと鋭い先輩のことだ。もしかしたらあの子の力の発散を手伝ってあげてえらいねと褒める意味かもしれない。
なでなで。なでなで。
「って、これですよ、これ!」
ばっと大きく腕を振って手を振り払うと、先輩が寂しそうな顔をした気がした。いや、表情は大きく変わってないけど。でも雰囲気がそんな感じだった。
そのことに少しだけ申し訳ないと思ったけれど、今はダメだ。ごめんなさいは後にする。今は、陽葵でもしっかりはっきりと言うところ。私は力強く彼を見上げると、ばっと指を突き付けて、これはちょっと良くない動作だなと思いつつ口を開いた。
「先輩がすーぐそうやって撫でてきたり、何かとお世話してきたりして、私もそれに慣れちゃったから変なこと言われるんです!」
「変なこと?」
その返答を言いたくなくて、すぐに言葉に詰まる。だって「貴方とお付き合いしているという噂」があると正面から言うのは、なんだか気まずい。そもそも、この噂はただの噂でしかないことを、私は誰よりも知っているはずなのだ。それなのにいちいち話題に上げて気にしていると知られるのは、なんだか逆に意識していると思われそうで非常に嫌だ。
自分でも何が嫌なのか、上手に説明できない。陽葵が将来、誰か好きな人ができてその人と恋人になれるのはいいことだ。その相手が私も知っている人というのは安心するべきことだと思う。でも先輩はだめ。すごく嫌だ。
……という、このよくわからないもやもやを一緒に説明しなければいけない気がして、噂の話をしたくないと思ってしまう。
勢い込んでいたくせに黙った私を見て、黙って様子を見ていた天海先輩が、なるほどね、と手を叩いたかと思うと、目を三日月型にして笑った。
「ははーん、陽葵ちゃんと秋也が付き合ってるとでも言われたんでしょ」
ひらめいた、と少し大げさな仕草と共に言うのは、わざと茶化してなんでもない話に変えてくれようとしているから、だろう。たぶん。二人とも高校生なのにいろんなところに気が使えてすごいなあ、と思ったことが何度もあるので、きっとそう。
だからその流れに乗って、私もなんてことないようにそうですよ、とか答えるべきなんだろうけれど。口から出てきたのは、うぐぐ、という呻き声だけだ。仕方ないのでこういう話になれていないんです、と頬を膨らませれば、そうなのか、と先輩がどこか安心したように息を吐いた。
「秋也の世話焼きっぷりなんて、オレたちの間だともう当たり前のことだから忘れてたけどさ。そうだよな、何も知らない人が見たら、確かに猛烈アタックしてるように見えるよな」
大変だったなー、なんて笑いながらぽんぽんと背中を叩かれる。
そう、そうだよ、そうなのだ。天海先輩の言う通りもうすっかり慣れてしまって、当たり前になってしまったけれど、この甘やかしっぷりは、確かにそういうアピールをしていると思われても仕方ないレベルなのだ。
当の本人はなるほど、と相変わらずの無表情でうなずいて、じっと私を見ている。この目も、少しだけやりづらくて苦手だ。じっと見つめて、私が何をしてほしいのかを探るような目は、一生懸命にそれらしく振る舞っている「陽葵」を通り抜けて私を見るから。やめてくれと、叫び出したくなってしまうのだ。
だから見つめられているのが非常に居心地悪く感じて身をよじると、先輩はもう一度うなずく。それから、そっと私の手を再び取って、なだめるように手の甲を撫でた。
「心配せずとも、可愛い末っ子だと思っているよ」
「……末っ子になった覚えもない……」
「なるほどつまり……秋也の名誉長男であるオレの妹ってことかマイシスター」
「私の兄弟は姉さんだけです」
調子に乗ったようにわざわざ囁いてきた天海先輩に名誉長男ってなんだと言おうとして、ああ先輩が勝手に自分の子供だと言って可愛がり出した第一号なのかなと勝手に納得して口を閉ざす。
先輩が子供扱いするのは私だけじゃない。同い年の天海先輩であろうが、もっと年上の玲生さんであろうが、姉さんであろうが、みんな等しく甘やかしたい赤ちゃんのように扱ってくるのだ。それがまた、ちょっと、面白くないのである。
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ごちゃ。