不意に後ろから肩を叩かれた。
ぼうっと歩いていた優乃は我に返った。振り返る。その頬にふに、と人差し指の先が沈んだ。
思わず固まった優乃に、高尾はけらけらと笑った。
「おお、見事な引っかかりっぷり」
「……高尾くん」
優乃はじとりと高尾を見た。高尾は面白そうに笑ったまま、軽い調子で謝って優乃の隣に並んだ。
通学路に彼ら以外の生徒の姿は無かった。高尾も優乃も、制服ではなく部活で着るジャージ姿だ。
ゴールデンウィーク初日の今日の練習は、秀徳バスケ部にとって少し特別なものだった。インターハイ予選の、ステーディングメンバーが発表されるのだ。
優乃は荷物の持ち手をぎゅっと握る。それを見て、高尾はちらっと笑みを浮かべた。
「なーに? 緊張してんの?」
優乃は一度高尾を見上げた。それから、少し俯く。もうすぐ新緑の季節だというのに、彼女の指先は冷たく冬の日のように白い。
「……うん。緊張してる」
帝光時代には有り得なかった感覚だった。スタメンの発表があったかどうかすら、記憶は朧気だった。
今は違う。
緊張と寝不足は、決して不快ではなかった。
発表は、練習前に行われた。
優乃は中谷の隣に待機していた。腕にしっかりと、先ほど監督に渡されたユニフォームを抱える。
部員全員が固唾を飲んで見守る中で、中谷が口を開いた。
まず真っ先に、大坪の名が呼ばれた。部員の間から大きな拍手が上がる。
大坪は聞く者の姿勢を正すような返事をして、前に進み出た。優乃は彼に、大きく4の数字が入ったユニフォームを手渡す。
受け取って、大坪は真っ直ぐに優乃を見た。
「試合中のサポート、よろしく頼むぞ」
びり、と身体中の骨が震えるような感覚だった。優乃の唇の端は自然と結ばれた。残りのユニフォームをぎゅっと抱え直す。
「はい!」
続いて、一軍の三年生、木村と宮地が呼ばれた。二人は嬉しさを隠し切れていないながらも、真剣な表情で前へ出る。
残る枠は二人となった。
優乃は己の足が僅かに震えていることに気づいた。
「次」
中谷の声が、体育館中に広がる。
「10番、PG……高尾」
極度の緊張の中で、いつもより少し固い声を聞く。
顔を上げた優乃の目に、不敵な色の浮かんだ瞳が映った。
「つーわけで、試合でも頼りにしてるぜ」
優乃の手から10番のユニフォームを受け取って、高尾は口角を吊り上げた。
唐突に、優乃は胸の奥から言葉が上ってくるのを感じた。
「おめでとう」
ごく小さな声だったが、高尾には確かに届いていた。
高尾は少し眉を上げた。ふっと満足げな笑みを浮かべた灰色の瞳が真っ直ぐに優乃を見つめ返した。
「サンキュ」
残る枠は、一人となった。
優乃が抱えるユニフォームには、6の数字が書かれている。優乃の目は、中谷が口を開くよりも先に自然と動いていた。
その人が纏う雰囲気は、凛としていた。洗練された風格に、思わず見惚れる。
最近、優乃は思うのだ。
周囲の反感を買ってしまうほど、緑間は練習中にも独り善がりなプレーが目立つ。チームのことを何も考えていない等といった陰口を、優乃はしばしば耳にした。
(でもそれは、違う気がする)
「6番、SG」
彼は、チームの勝利という点においては、誰よりもチームのことを考えている気がするのだ。
「緑間」
鋭くスキール音が響いた。
優乃は前へと進み出てきた緑間を見上げる。彼は目の前のユニフォームなど見ていなかった。その先の緊張と熱気とに満ちた場所を、その美しい双眸でただ静かに見据えていた。
自然と、唇が動いた。
「おめでとう、緑間くん」
視線が合う。モスグリーンの瞳が微かに、色を変えた気がした。
「……当然なのだよ」
指先にテーピングの施された手がしっかりと、6番のユニフォームを掴んだ。
ベンチのメンバーも発表し終わり、少しの時間を挟んでから練習が開始される運びとなった。
足の震えは未だに収まらなかった。舞台の隅の方に腰かけて静かに呼吸する優乃の頭に、背後からチョップが落ちてきた。
小さく声を上げ、首を竦めた優乃は振り返った。仏頂面の宮地が、しゃがみ込んで手を下ろしていたところだった。
「み、宮地さん?」
「水谷ー、次は拳でやるぞ?」
笑顔のはずの宮地の眉間には、くっきり皺が寄っている。身に覚えがない優乃はさっと青褪める。
「ごめんなさい! 何か悪いこと……」
「無意識だったのかよ! ますますタチ悪いな、刺すぞもー」
にっこり笑った宮地の背後に黒い靄が確かに見えた。びくっと肩を跳ねさせて、優乃はますます青くなる。
優乃の尋常ではない慌て様に、宮地はたっぷりと重量感の詰め込まれたため息を吐いた。
少し目を伏せて、彼は優乃の瞳を真っ直ぐ見た。
「おめでとう、は?」
「……へ」
「言うべきだろーが、先輩にも!」
優乃の目がゆっくりと見開かれた。
「宮地さん」
「何」
「スタメン、おめでとうございます」
はにかむ優乃に、宮地は再びチョップした。
「遅いわ!」
「すみません!」
「お前さ、何か色々深く考えすぎ」
宮地は棘のある口調で言って、一度立ち上がった。足を舞台の縁から投げ出して、優乃の隣に座る。
(そんなつもりは……ないんだけどな)
優乃は己の足元を見た。帝光のときとあまり違わないはずだ。
何やら考え込んでしまった優乃を横目で見て、宮地はひっそりと苦笑した。ぺし、と優乃の頭を叩いてこちらを向かせる。
「王者秀徳のマネージャーなんだ。緑間から図々しさ半分くらい貰って来い、優乃」
優乃が目を丸くしたのは、宮地が舞台から下りた後だった。
愛しくなる衝動