授業から一時的に解放された生徒たちは、思う存分羽を伸ばしていた。
優乃もその中の一人だ。隣に座っている美智子や窓側の席から遊びに来た歩美達と、前の授業や昨日のドラマの話をする。
「私あの上司役の人好きー」
「あ、わかる!」
「えー、わかんない。同僚の人のが良くない? 彫り深めのー」
美智子が机にのめり出してまで好みの顔について語り始めたところで、にわかに廊下が騒がしくなった。
教室の前を、ぞろぞろと生徒が通っていくところだった。化学の実験だったのか、微かに薬品のにおいを連れている。その内の一人と、優乃はぱちりと目が合った。
「優乃ー」
一部の生徒が高尾と優乃とに目を向けるが、最近優乃はあまり気にならなくなってきた。部活の話で大坪が来るときの方が、よほど教室内がざわつく。
「どうしたの?」
聞き返した優乃に、高尾は左手を軽く揺らしてみせた。
「今朝の練習の後から左手首になんか違和感あんだわ。念のため部活前にテーピングしてくんない?」
「わかった。確かにした方が良さそうだね」
「だよな。サンキュ」
高尾はニッと笑って手の代わりに資料集を振った。
視線を元に戻した優乃は、友人全員の目がこちらを向いているのにぎょっとした。
歩美が感心したような口振りで言った。
「バスケ部って仲良いよねー」
「高尾といい山田といい、優乃のこと名前で呼んでるしね」
歩美の言葉に、その隣の女子生徒が頷く。優乃は頬を掻いた。
「それはなんていうか、成り行きなの。三年生の先輩が一回呼んだら、ぶわっと広がっちゃって」
「あーなんかでもありそうそういうの」
「優乃はさあ、部員のこと名前で呼んだりしないの?」
美智子が長い睫毛を瞬かせて、優乃の瞳を覗き込んだ。
「癖になっちゃってるから」
「ええ〜、名前呼んであげた方がぜーったい、部員の子たちテンション上がると思うのにい」
フロアに汗が滴り落ちる。
少しでも多く酸素を取り込もうとする呼吸の音がいくつも聞こえてくる。
「足止めるな! ラスト10本!!」
彼自身も肩で息をしながら、大坪が叫んだ。シューズが床とこすれて悲鳴を上げている。
インターハイ都予選のトーナメント4回戦が、次の週末に控えていた。シード校である秀徳はこれが今年初の公式戦となる。王者秀徳に余裕はあれど、油断など欠片もなかった。
部員たちが白いラインを踏んだところで、優乃はホイッスルを鳴らした。基礎練習を終え、休憩を終えてからコンビネーション、実戦練習に入る。
続いて行われた試合形式の練習は、本番さながらの雰囲気の中行われた。優乃もマネージャーとしてタオルやドリンクを用意する他、選手の様子に異変がないかしっかりと目を配る。
最後に短めのミーティングを開いて、全体としての練習は終了した。この後は各自個人練習に入る。試合前ということもあって、最後まで残っていたのはベンチ入りしたメンバーだった。
ボールが弾む。
額の汗をTシャツの袖で拭いながら、高尾は体の横で、準備するように軽くボールをバウンドさせる。その前で鋭利な空気を纏った緑間が、腰を落として身構えた。
優乃は、思わず作業する手を止めた。
自主練中、緑間は一人黙々とシューティングを行っていることが多い。1on1は滅多にしない。普段の練習で行うことはあるが、その際優乃は忙しくてなかなか見られない。
少しの間ボールを軽くバウンドさせていた高尾が、腰を低く落とした。灰色がかった瞳がすっと鋭くなる。
高尾はパス回しを得意としている。しかしそれだけでスターティングメンバーに選出されるほど、王者は甘くない。
優乃の視界はどんどん狭くなった。いまや色づいているのは二人とそれを囲むごく限られたコートだけだ。
ぴり、と張りつめている空気が僅かに揺れた。
緑間が微かに動いた。
それを読んでいたのか、高尾の背が瞬時に逆の方向へ沈み込む。
緑の髪が揺れる。鈍い音が響く。ボールがフロアの上で弾んで、転がっていく。
剣の切っ先のように鋭かった空気が、一瞬で霧散した。
高尾の背中から、ゆっくりと余分な力が抜けていった。その様は狩りを終えた獣のようだった。緑間が眼鏡のフレームを上げた。
「……あーちくしょう。やっぱ真ちゃん抜けねーなあ」
外から見ているだけの優乃にはわからなかったが、動きに至るまでにいくつもの駆け引きがあったのだろう。
(緑間くん、やっぱりすごいんだな)
帝光のときから見ている。優乃は彼が3Pシュートだけの選手でないことを十分わかっている。
帝光という特殊な舞台から離れて、それは事実としてさらに鮮やかになった。無意識の内に止めていた息を静かに吐き出して、優乃は作業へと踵を返した。
体育館の鍵を閉めるのは、最早殆ど優乃の仕事だった。残っていた部員たちが着替えている間に職員室へ返しに行くのだ。
夜は物騒だからと、最近ではいつも残って仕事をしている担任が優乃に女性職員用の更衣室を貸してくれていた。
スカートのホックを留めて、優乃は更衣室を出た。廊下のずっと先に、非常口の緑の光が見える。一度職員室まで引き返して担任に挨拶して、校舎を出た。
職員室の明かりは優乃を背後から煌々と照らすだけで、その先の帰路は闇に閉ざされている。この中を一人で帰るのかと思うと、いくら慣れていてもため息を吐きたくなった。
中学の時も帰りは遅かった。道は暗かったけれど、桃井の弾けるような笑い声に守られていつも明るく安全だった。
肩の鞄をかけ直して、優乃は校門へと向かった。
校門に近づくにつれて、その近くに人影があるのが見えてきた。部活帰りの生徒が溜まっているのかもしれない。優乃の足取りが重くなる。
以前、門の辺りでたむろしていた男子サッカー部の先輩たちに、少し絡まれたのだ。
優乃は彼らと目が合わないように、視線を伏せた。ゆっくり歩いていても、校門は近づく。
「お。来た」
「……遅いのだよ」
彼女の顔を持ち上げたのは、聞き慣れた声たちだった。
高尾はびっくりして立ち止まった優乃を見て、片眉を上げた。ふっと笑われる。
「何でそんな驚いてんの?」
「何故そこで止まる。早く来るのだよ」
頬が緩んでいくのを止められなかった。優乃は駆けるように足を踏み出す。
「ありがとう、二人とも」
愛しくなる衝動