14:息をするなら呼吸をやめな



 背中に大きく秀徳と文字が入った白字のTシャツの上に、橙色のジャージを羽織る。ボタンを留めて、優乃は一つ息を吐いた。
 秀徳は、今日これから行われる第四試合が今シーズン初の公式戦だった。緑間の加入をはじめ、秀逸な人材が集まっている。巷で言われているように、今年の秀徳は特別実力がある。今日の相手校も良いチームだが、王者との差は歴然だ。
(わかってるのになあ)
 優乃は、小刻みに震える手のひらを一度ぎゅっと握って、女子更衣室として設けられている部屋から出る。
 直後、誰かに思い切りぶつかられて、優乃はその場に尻餅をついた。咄嗟についた手のひらに、じんと痛みが広がる。
「ごめんなさ……」
「ってェな!!」
 顔を上げた優乃の目に、柄の悪そうな男子高校生たちが映った。左肩に明常学院とローマ字で書かれたジャージを纏っている。
 彼らは怒声を上げた後、優乃を見下ろしてすっと目を細めた。ぞく、と優乃の背筋を嫌な寒気が走った。
 彼らの口元に、スポーツ選手の爽やかさと全く無縁の粘着質な笑みが広がった。
「へーえ、キミ? オレにぶつかった子」
「つかその子秀徳のジャージ着てんじゃん。マネージャー?」
 優乃は素早く立ち上がった。しかしそれよりも早く、図体だけは大きな男子生徒が優乃を取り囲む。茶髪の方が一歩優乃へ近づいた。
「オレらさっき新設校に負けちゃってさあ、マジ凹んでんだよね〜」
「キミ王者の一員なんだろ? ちょっとオレらにバスケのコツ教えてよ〜」
 優乃は周囲に目を走らせた。壁に時計を見つける。試合までに準備することはたくさんある。ひるんで時間を取られている場合ではない。
 きつく拳を握って、優乃は男子たちに出来る限りの冷たい目をしてみせた。舐められたら終わりだ。相手の喜ぶような反応もしてはいけない。
 口を開きかけた優乃の耳に、ドスの効いた声が聞こえてきた。
「何してんだよ」
 明常学院の生徒が、喧嘩腰で一斉に声の方を見た。優乃もそちらへと目を向ける。
 凄まじく黒い空気を背に纏った宮地が、こちらへ歩いて向かっていた。顔が一切笑っていない。少し丸めの輪郭で甘い印象を与える目が恐ろしく鋭い。闇の帝王が登場する場面の音楽が廊下に鳴り響いていたとしても、何も違和感はなかっただろう。
 優乃は明常の選手たちの空気が、一気に固まったのを感じた。
「ウチの、マネージャーに、何してんのって訊いてんだよ。何? 答えられねーようなこと?」
 191pの長身が、雰囲気を纏って更に大きく見える。一言ずつ区切るように発音した後、宮地はこの場へ出てきて初めて笑った。見る者を一瞬で凍らせる、温度の無い満面の笑顔だった。
「轢くぞ」
 爽やかな響きのある声からは想像もつかないような、低い声だった。
(轢かれる!!)
 明常学院の生徒の心がその瞬間、一つに重なった。
 彼らは素早く踵を返し、瞬く間に廊下の向こうへ消えていった。宮地が獲物を逃したハンターのような形相で短く舌打ちした。
 優乃はふうと張りつめていた空気を吐き出した。知らぬ間に背筋には冷や汗が滲んでいた。どこかへ走り去っていた緊張まで舞い戻ってくる。
「宮地さん、ありが……」
 宮地の方へ向き直った優乃の額に、彼の中指がぴしっと当たった。「いたっ」小さく声を上げて、優乃は片手で額を押さえる。
 おどろおどろしい空気は消えたものの、彼は口角をへの字に下げていた。
「何絡まれてんの」
 少し棘のある声だった。
「じゃねーな」
 その後すぐに、宮地は言葉を取り消す。目線を少し上げて何か考えた後に、宮地は優乃を見た。
「大丈夫か」
 つっけんどんな口調で問いかけられる。その目から鋭さは消えていた。
 早鐘を打っていた心臓が、徐々に落ち着いていく。優乃は頷いて、踵を返す宮地の隣に並んだ。

 試合開始十分前となった。
 大坪に声を掛けられて、優乃はやっと俯かせていた顔を上げた。感覚が指の先まで見事に消えている。
 スポーツバッグの持ち手を握り直す。体育館内への入場には慣れているはずなのに、足場の悪い沼地を進んでいるような心地だった。
 人々が秀徳の入場に気がついた途端、館内の空気がざわついた。同時に秀徳側の観戦席から部員たちの声援が蓋を開けたように一層大きくなる。
(怖い。怖い……)
 自分でも制御できない恐怖の帳に心を覆われそうになりながら、表情には出さない。帝光時代に骨の髄まで染み込んだ意識だった。自校の選手を動揺させたり、他校に隙を見せたりするようなことは、一切あってはならない。優乃は今日のラッキーアイテムくまのぬいぐるみを携えた緑間や、会場を余裕の表情で見渡す高尾に続いて、真っ直ぐな背筋でコートへ向かう。
 不意に前を行く一年生二人が足を止めた。優乃は思わず彼女も立ち止まった。
 秀徳の人間ではない足音がこちらへ近づいてくる。
 燃えるように赤い髪だ。それと同色の瞳が睨むように緑間を見据える。その長身とがたいも相俟って、彼は虎のような迫力を醸し出していた。
「よう。オマエが緑間真太郎……だろ?」
 緑間と火神の纏う空気は、限界まで引っ張られたか細い糸を見つめているみたいに静かだった。緑間の双眸がレンズの奥ですっと細められた。
「……そうだが。誰なのだよキミは?」
 しらばっくれる緑間に高尾が思い切り噴き出したにも関わらず、空気はまるで居合の試合のように張り詰めている。
 優乃が高尾に聞いた話では、緑間は予選一回戦も見に行ったらしい。緑間は誠凛に強く注目している。
 彼が進学した学校なのだから、当然のことかもしれない。
 丁度火神を連れ戻そうとしたところなのか、思い浮かべた人物がこちらへ歩んできた。キセキの世代幻のシックスマンは、体育館の窓枠が作る影のようにごく自然にそこにいて、ごく当たり前のように風景に溶け込んでいる。
 黒子はちょっと周囲を見渡して、初めて優乃に気がついたようだった。透明な空色の瞳が色を変える。びっくりしているみたいだ。優乃は小さく黒子に会釈した。
(黒子くんに会うのも、すごく久しぶりな気がする)
 黒子はすぐに元の表情に戻って、優乃へ会釈し返した。再び彼は緑間たちの方へ歩を進める。
 誠凛と王者との力の差は圧倒的だと言った緑間に、黒子はやってみなければわからない、と凛とした態度で言い切った。瞳の中の透き通った高い空に、陽光の強い光が浮かんでいた。
(黒子くんは、本当に強い)
 優乃が黒子を知ったのは、彼が一軍入りしてからだった。周囲と比べて格段に低い基礎能力を指摘されても、非難の目を向けられても、その瞳の奥に常に宿っている陽光のような強い光は何者にも隠されなかった。
「いつまで喋ってる!」
 大坪の声に、優乃は我に返った。頭を軽く振る。今は目の前の試合に集中すべきだ。
「優乃まで何をしているんだ、早く来い!」
「はい!」
 シューズが足元できゅっと音を立てる。


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愛しくなる衝動