15:僕が救い出してあげるからどうか右手を差し出して



 秀徳はインターハイ都予選の初戦にて、緑間の投入もあって錦佳を153対21と圧倒的なスコアで下した。
 隣を歩く高尾が欠伸を零す。優乃は自分にその余裕があることに驚きながら苦笑した。
「今日はまだ17時から試合あるから、気を抜き過ぎたらだめだよ」
「だーいじょぶだって。いつもやってること普通にやるだけだし」
 帰ってきた高尾の言葉に目を瞬く。思わず笑ってしまった。
(頼もしい)
 同時に自覚する。ほっとしている。試合に勝ったことに、心の底から安堵している。存在意義を噛み締めて歩いている。そのはずなのに、いつまでも迷子のような気持ちが袖を引いてついて回るのだ。
 優乃は、スポーツバッグを担ぎ直した。
「それじゃあ、いつも通りできるようにまずはしっかりマッサージするね」
 マネージャーにとっては今からも大一番だ。
 高尾はちらりと隣の優乃を見た。口元が緩む。
「頼んだぜ」
 ぽん、と肩を叩かれる。優乃はぐっと手を握って頷いた。

 五回戦も危なげなく快勝し、秀徳は準決勝まで駒を進めた。
 優乃は夕日で綺麗に染まった廊下を歩いていた。手に抱えているマッサージと古武術の本が重たい。
 昨日、短い時間の中で多くの人数をマッサージして気がついたことがあった。指が昨日の夜からずっと引き攣っているのだ。今は試合日が少し空くので次に支障を来すことはないが、このままでは試合が続くようになったときに満足のいくマッサージができない。解決策を練りつつマッサージの質を更に高めようと思い、借りてきたのだ。
 もう二冊の方は、決勝相手の対策を考えるために借りてきたものだった。
 優乃は、桃井のように相手がどのように成長するか予測することは不可能だ。桃井の天賦の才があってこそ成せることであり、いくら同じだけ情報を集めても他の人間にはできない。
 しかし、相手に対する知識を蓄えてチームへ提供することは、優乃たち桃井以外の者にもできる。
 秀徳は、放課後も人の気配が色濃い学校だ。床を抜けるようなトランペットの音や、壁を突き破りそうなバッティングの音がひっきりなしに聞こえてくる。開け放たれた窓の横を通ると、茜色の夕日と一緒にグラウンドからサッカー部の掛け声も飛び込んできた。彼女のすぐ脇を硬式テニス部が三人抜けていく。校舎内で基礎トレーニングをする運動部の一つで、秀徳名物なのだ。
 テニス部の邪魔にならないように設置されているラダーを避けて、優乃は斜陽に沈む階段を下りた。

 職員室に部室の鍵を取りに行ったが、それは所定の位置に下がっていなかった。その足で部室まで向かう。ノブに手を掛けて、試しに捻ってみた。扉は静かに開いた。
 一瞬鍵の閉め忘れかと思った優乃の耳に、よく聞き慣れた声が届いた。
「確かに王者と名乗るだけはある」
 優乃は音を立てぬようにそっとノブを押した。
 普段騒がしい部室内はしんとしていて、本来の広さを取り戻していた。
 西側の壁の殆どを独占する窓が光を湛えて、溢れた光が室内を大きく横切っている。バスケットボールの入ったカゴや備え付けの戸棚から、床や壁のポスターに影が落ちていた。奥の壁に背をつけて設けられている画面の大きなテレビには、バスケットコートと動き回る選手が映しだされていた。
 その前に、くっきりと黒の学生服の背中が並んでいる。
 優乃の唇は、知らず小さく開いていた。ゆっくりと開かれていく黒い瞳が、夕日をくるりと反射した。
 見惚れるなという方が難しかった。優乃にはその光景が、どんなに高い値段の絵画よりも得難いものに見えた。
 手にした本が滑り落ちかける感触で、優乃の耳には唐突に音が戻ってくる。慌てて持ち直した。筋がぴりっと痛んだ。
(うーん、これを何とかしないとなんだよね)
 優乃は真剣な二人の邪魔をしないように、そっと部室へ滑り込んだ。
 彼らが見ているのは正邦戦のDVDのようだった。シューズのスキール音やボールの音が一度筒を通したような音で聞こえてくる。相手が北和田ということは、昨日の試合だろう。
 正邦のプレーを黙々と見ていた緑間が零した。
「何か妙なのだよ。正邦の動きは」
「忘れちまったけどなんか……この学校の練習は特殊なんだと」
 高尾は前を見据えたまま言った。画面の中では丁度、坊主頭の選手が北和田のエースのディフェンスをしているところだった。
「どーやってっかわかんねーけど機動力がやけに高い。DFなら東京最強だとさ」
 優乃はつい、彼女も試合の動画を見ながら、影に沈む壁際の机に本を置いた。そっと置いたはずが、手元を見ていなかったのが悪かった。持っていた三冊の内一番上が滑り落ちる。優乃があっと思う間もなかった。
 前の二人の肩が、面白いくらいに跳ね上がった。揃って勢いよく振り返られる。バツが悪くて仕方がない。
 緑間は見開かれた目を二、三度瞬かせた後、深く息を吐き出した。高尾は前に回していた椅子の背もたれに、脱力して上体を委ねる。
「優乃ー……マジ驚かすなよー……」
「いつから居たのだよ……」
 優乃はいたたまれない気持ちのまま答えた。
「少し前に……」
 彼らを気遣った行いが、裏目に出てしまったようだ。
「ごめん、真剣にDVD見てたから」
「だとしても声くらい掛けるのだよ……」
 眉根を寄せる緑間に、優乃は再び謝った。足元に落ちてしまった本を拾い上げる。本のタイトルを緑の瞳がなぞったのは彼女には見えなかった。そのまま机の横にある椅子に座りかけた優乃に、高尾が待ったの声を掛けた。
 首を傾げる優乃に、彼は緑間の横の空いたスペースを指さす。
「こっちで一緒に見よーぜ」
 DVDが巻き戻り始める。緑間がリモコンを片手に、ちらりと優乃を見た。
 橙の斜陽が照らす二人の瞳に、優乃が映っている。胸の奥から溢れるようなあたたかさが、そのままゆっくりと彼女の頬を優しく包んだ。
「うん」
 椅子を持ち上げて二人へ近づく。影の境界線から踏み出して朱色にぱっと染まった頬が花のごとく綻ぶ。
 灰色がかった吊り目がゆっくりと大きくなる。
 床に伸びた二つの椅子の影に、もう一つ影が重なった。


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愛しくなる衝動