16:ただ抱き締めてくれるだけで良いんだ、それ以上は望まない、だから



 照明がコートとその中で最後の調整をしている各選手たちを眩く照らす。部員たちの掛け声やボールの弾む音の間を縫って、観客の話し声が小さく聞こえていた。
 インターハイ予選の頂点を決めるときは、刻一刻と迫っていた。
 選手たちが練習している様子をもう一度見つめてから、優乃は踵を返してベンチへ向かった。そろそろ観戦席の方へ向かわねばならない。
 ベンチに置いていたバインダーとペンを拾い上げる。視界に入った手が小刻みに震えていて笑ってしまう。
「あれ、優乃どっか行くの?」
 丁度タオルを取りにベンチへ来た高尾が、コートから離れる優乃に気づいた。優乃は振り返った。
「うん。私はこの試合、向こうの偵察で」
 先程中谷に言われたことだった。古武術について部員内で最も詳しく知っているのが優乃だからだ。的確な知識が無いと、敵の調子の良し悪しや試合の組み立て方について、独特な動きの中正確な判断ができない。
「高尾くんは準決途中で温存だよね」
「まあオレの場合は真ちゃんと違って、スタミナがまだ足りねーってだけだけど。でもなんか、温存って言い方されるとテンション上がるなー」
 口角を吊り上げて、高尾はタオルで汗を拭う。優乃はゆっくりと首を振った。
「高尾くんのも、温存だよ」
 黒の瞳が真っ直ぐに高尾を映した。高尾は目を見開いて、何度か瞬いた。
「相手が本命の正邦なら、鉄壁のディフェンス相手に広い視野を前提としたパス回しは最重要。誠凛が勝ち上がってきたら黒子くんの攻略なしには勝てない。それこそ、高尾くん抜きでは絶対に勝てない」
 優乃は言い切った。頭の中をそのまま口に出すのは本来とても勇気のいることだが、自分でも驚くほどすんなりと形を結んだ。相手が高尾だからできたのだということを、優乃ははっきりと感じていた。
 緊張に少し震える息を一つ吐き出す。灰がかった瞳を見つめて、優乃は微笑んだ。
「ね。温存でしょう?」
 バインダーを抱え直す。
 高尾の向こうには、ゴールが見えていた。圧倒されるほど大きい。試合中の彼らを最も強く支えると同時に、最も冷たく突き放す巨人だ。
「……この試合、私はここにいないけど」
 優乃の眼差しが遠くなる。照明を一身に浴びているのに、まるでそれを外から眺めているような眼差しだった。しかしそれは一瞬だった。すぐに優乃の瞳の中に高尾の姿が戻ってくる。
「気持ちはみんなと同じところにありたい。応援してるよ」
 ゴールをくぐったボールが弾む音が聞こえる。
 高尾はふっと笑った。タオルをベンチへと放って、彼は優乃に歩み寄った。
 彼を見上げる優乃の前に、高尾は軽く握った拳を持ち上げた。不敵な笑みが何より雄弁に優乃を誘う。優乃は愕然と高尾の差し出す拳を見ていた。
 ボールの音や、照明の光は、気づくと随分遠くなっていた。目の前の拳に体の全てが支配される。それは優乃が喉から手が出るほどに欲しがったものに、とても似ていた。
 優乃は目頭に仄かな熱を感じながら、握った手のひらを持ち上げる。
 ぶつかった拳から伝わった衝撃が、確かな熱と共に体中を駆け巡った。


前の話 次の話
愛しくなる衝動