20:優しいやいば



「水谷」
 その声は、確かに優乃を呼んだ。
 コートから少し遠ざかった廊下には、熱気や喧騒も届かない。備え付けのベンチに座り、自分の手を見つめていた優乃は顔を上げた。緑色の綺麗な瞳に、情けない顔をした顔がしっかりと映っていた。
「緑間くん……」
 緑間は相変わらず、口角の結ばれた仏頂面で優乃を見ていた。
 知っている。
 緑間はバスケに関することで優乃に笑いかけることなど無い。そもそも、彼のバスケという世界の中に、恐らく優乃は存在しない。
 高望みはしない。
 しかしこの手の指先くらいのスペースで構わないから、緑間という一人のチームメイトの世界に優乃として存在したい。そう望むくらいは、許してほしいのだ。
 その瞬間は優乃の目の前に近づいていた。しかし同時に、指先が一生届かなくなる可能性も同じように近づいていた。
(抑えないと。今、私の言動でチームの誰かの空気を乱すようなことをしたら、絶対に、だめ)
「どうしたの?」
 口を開く。声に震えはない。笑えてはいないが、平素の通りだ。
 ベンチの少し先に設けられた自販機から鳴り続ける電子音がいやに響く。
 緑間がため息を吐いた。
 優乃の心臓は凍り付いた。緑間ほどの選手であれば、己の精神状態を管理することなど造作もないだろう。しかし周囲の影響を全く受けないはずはない。その上緑間のシュートは繊細なタッチが不可欠なのだ。
 激しい後悔が優乃の胸で渦巻く。
(今の私がチームの近くに居たら絶対に悪影響だから出てきた。でも、それだけじゃだめだったんだ。もっと遠くか、トイレにでも行っておけば)
 緑間は一歩、優乃へと歩み寄った。
 彼はそのまま、優乃の隣へ座った。
 少し間は空いているが、優乃にとってそれは白昼夢とさえ思える行動だった。目を丸くして、優乃は緑間の横顔を呆然と見た。
 緑間は優乃の方を見なかった。モスグリーンの瞳は、ただ真っ直ぐに前を見ていた。
「……お前が何を見てどう考え、不安を感じているかなどオレは知らない」
 しかし、早口で紡がれたその言葉は、確かに真っ直ぐ優乃に向けられていた。
「だが、不安を感じる必要はどこにもない」
 獲物を見据える獅子のように、眼鏡の奥の双眸が鋭さを増した。
「何故なら、オレらが勝つのだから」
 彼は優乃の望むものを知らない。その言葉は優乃の考えているような意味は含んでいない。それでもよかった。今の優乃にとって彼の言葉は、大きな柱となった。
「……うん。ありがとう、緑間くん」
 優乃はその、体の芯へ響くような低くて力強い声に縋りついた。


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愛しくなる衝動